Thursday, January 29, 2009
Oracle instant client
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Oracle 10g Instant Client on RHEL4 and RHEL5
Oracle 10g Instant Client on RHEL4 and RHEL5
Mon May 21 2007 : Updated to 10.2.0.3 at last, rebuilt most packages and added Red Hat Enterprise Linux 5 (RHEL5) packages.
Thu May 18 2006 : Fixed library path in the oracle-client-config script on 64bit architectures and rebuild perl module.
Mon Apr 24 2006 : Updated instantclient to 10.2.0.2, libsqlora8 to 2.3.3, squale to 0.1.6 and fixed php-oci8 build on x86_64.
Mon Apr 04 2005 : Initial version of this page.
Here are the files I use to configure Red Hat Enterprise Linux 4 and 5 (RHEL4 and RHEL5) servers as Oracle clients. They have been tested with php-oci8, squale and perl-DBD-Oracle (required by the oracletool CGI). The main oracle-instantclient packages have been rebuilt from the zip files provided by Oracle because their rpm packages don't work as expected (no require/provide information and no ldconfig calls), and also because Oracle didn't use to provide any x86_64 rpm packages. Of course, the proprietary Oracle bits aren't available here, which is why you'll find only the .nosrc.rpm file. For other packages, binaries are provided since they only link dynamically to the Oracle libraries and contain no proprietary code.
All the RHEL5 packages (i386, x86_64, SRPMS) :
- libmcrypt-2.5.7-5.el5
- libsqlora8-2.3.3-2.el5
- oracle-instantclient-10.2.0.3-1
- perl-DBD-Oracle-1.19-1.el5
- php-mcrypt-5.1.6-1.el5
- php-oci8-5.1.6-1.el5
- php-squale-0.1.10-0.1.el5
- squale-0.1.10-0.4.el5
All the RHEL4 packages (i386, x86_64, SRPMS) :
- libsqlora8-2.3.3-2.el4
- oracle-instantclient-10.2.0.3-1
- perl-DBD-Oracle-1.19-1.el4
- php-oci8-4.3.9-3.el4
- php-squale-0.1.9-1.el4
- squale-0.1.10-0.2.el4
If you need to rebuild the php-oci8 module for another PHP version, you can use the patches below. PHP5 and recent PHP4 versions work as-is on i386 but still require a minor change on x86_64.
- php-4.3.9-oci8.patch (for 4.3.9 and 4.3.10)
- php-4.3.11-oci8.patch (for 4.3.11, 4.4.0 and 4.4.1)
- php-5.1.6-oci8.patch (for 5.1.6, 5.2.2)
Wednesday, January 28, 2009
市場の失敗
市場メカニズムによって最適な資源配分が達成されるためにはいくつかの条件が成立していることが必要である。逆にいうと、これらの条件が成立していない場合、競争的均衡による最適資源配分は達成されなくなる。このような状況を市場の失敗という。具体的な例としては、(1)費用逓減、(2)外部効果、(3)公共財、(4)不確実性などがある。
情報・知識 imidas
市場の失敗[不完全競争と外部性]
market failure
経済・産業
> 経済理論
> 不完全競争と外部性
■不完全競争
■独占
■市場の失敗
■寡占
■派生需要
完全競争市場での均衡では生産と消費が、無駄なく最大量までなされるという意味で、パレート効率的となる。これに対して、市場を通じてはパレート効率性が満たされない状況を一般に市場の失敗とよぶ。情報の非対称性がある中古車市場では市場を通じて効率的配分が達成されない。また、市場の失敗が起こる別な原因として外部効果の存在がある。
ある経済主体の経済活動が他の経済主体の経済活動に与える効果を、外部効果とよぶ。それが、外部効果の受け手にとって好ましいものであれば外部経済、好ましくないものであれば、外部不経済とよんでいる。
外部経済でも、パソコンの生産量が増加して、プログラマーの賃金が上昇するという効果などは、単に市場を通じての影響に過ぎず、市場の失敗に結び付くものではない。単に、市場が互いに関連していることの結果として、他の市場の均衡価格に変化をもたらす効果は、金銭的外部効果とよばれている。
外部効果として、特に取り上げて問題とすべきなのは、ある経済主体の行動のもつ他の経済主体の生産関数や効用関数を直接変化させる効果で、これを技術的外部効果という。川の上流の企業Aが工場廃水を川に放出し、その量が多い程、下流で操業する染め物工場が水の浄化能力を増大せざるを得なくなるというのは、企業Aが企業Bに技術的外部不経済を与える例になる。
完全雇用
完全雇用
かんぜんこよう
目次:
完全雇用
full employment
働く意志と能力をもつ者が、すべて雇用されている状態をいう。
古典派経済学では、労働力需要も労働力供給もともに実質賃金率の関数であると考えるから、賃金率の伸縮性が十分であれば、賃金率の労働力需給調節作用によって完全雇用が達成されるわけであり、失業があるとすれば、現行の賃金率では就業することを拒否するもの、すなわちいわゆる自発的失業だけである。もっともこの場合にも、摩擦的失業や季節的失業は存在する。前者は市場事情の不知、労働移動の困難、職種転換の困難などの各種摩擦から発生する失業である。後者はある職種の求人が特定の季節にのみ集中するため、それ以外の季節に失業が発生する場合をいい、杜氏(とうじ)、北洋漁民などがその好例である。かくて古典派経済学は、自発的失業、摩擦的失業、季節的失業は別として、完全雇用の経済学であるといわれる。
これに対して1929年の世界不況以後の大量の失業は、古典派経済学では説明がつかぬものであり、この現実を背景にしてケインズ経済学が登場した。J・M・ケインズは、現行の賃金率で働く意志があるにもかかわらず、有効需要が不足するとその社会の産出量が低下して、そこに就業の機会を得られない人々が発生する、すなわち非自発的失業が発生することを指摘した。そしてこの非自発的失業は、公共投資その他の政策によって有効需要を高めて、その解消を図るべきものであるとした。ケインズ経済学にあっては、古典派経済学と異なり、完全雇用は自動的に達成されるものではなく、政策的に実現を図るものなのである。
ケインズ経済学はアメリカのニューディールによって実践に移され、失業の解消に貢献した。各国もこれに追随し、失業の解消は政策目標としてしだいに定着していった。さらに第二次世界大戦中には、W・H・ビバリッジに代表されるような、完全雇用の実現を政策的に図るべきであるとの思想が高まった。そして戦後には先進諸国において完全雇用政策は社会・経済政策の中軸として定着した。戦後の経済は経済復興から経済成長期に移り、完全雇用の実現も比較的容易であったが、1970年代に入ると各国ともスタグフレーションに襲われ、ふたたび失業が問題化してきた。
[佐藤豊三郎]
完全雇用のあとに何がくるか ジェ-ムス・ロバ-トソン(英国/経済学者)
http://www.asyura2.com/0403/hasan35/msg/427.html
投稿者 hou 日時 2004 年 6 月 06 日 11:18:25:HWYlsG4gs5FRk
UK unemployment fell by 48,000 in the three months to March taking the figure to its lowest since records began.【BBC NEWS】
http://news.bbc.co.uk/1/hi/business/3706601.stm
完全雇用のあとに何がくるか
http://jicr.roukyou.gr.jp/hakken/2000/10/robertson.htm
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ジェ-ムス・ロバ-トソン(英国/経済学者)
翻訳:石見 尚(日本ルネッサンス研究所)
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訳者まえがき
日本はヨ-ロッパよりも10年遅れて成熟社会に入り、若者の企業への就職の意識が急激に変りつつある。また日本型経営の神話が崩れ、中高年は否応なく、自分の人生の再設計をする必要に迫られている。
11月に来日するジェ-ムス・ロバ-トソンのこの論文は、1984年のロンドン・サミットを機会に、近い将来、雇用労働に依存する経済体制が活力を失うことを予測し、「オウンワ-ク(Ownwork,自分自身の働き方)」の社会的登場の必然性と意義を説き、その組織化の推進とそのための政策を提案したものである。今日の日本の現状に照らして、16年前の予見の正しさがわかるであろう。この論文のごく最初の部分は、訳本「生命系の経済学」(御茶の水書房、1987)に収録されているが、全体は紹介されていない。
ここに本論文を新しく全訳紹介する目的は、第一に、当時、日本でも出発していたワ-カ-ズ・コ-プ(コレクティブ)の世界的意義を、日本の労働界はもちろん、国会、政府、経済界、ジャ-ナリズムなどに広く認識してもらうためである。日本でここまで発展しているワ-カ-ズ・コ-プについては、まずその貢献を社会的に認知し、法的整備をいそがなければならない時代が既にきていることを言いたい。
第二に、新しい働き方の推進には、法制化だけではなく、多面的な政策の見直しが必要になる。それがまた、日本の制度疲労した経済と社会を建て直す契機になることを主張したい。この論文は関連するオルタナティブな政策のヒントをたくさん提供している。ワ-カ-ズ・コ-プ(コレクティブ)はあたらしい政策提案をするだけの経験と資料を蓄積しているので、ワ-カ-ズ・コ-プ(コレクティブ)自身が本論文に触発されて、建設的な諸提案をするように促すのが、もうひとつの目的である。
1.はじめに
イギリスでは今日(1984)、数百万人が失業している。1984年6月に開催されたG7サミット国の失業者は数千万人にのぼつている。第3世界の国々では、状況はもつと悪い。ILOの1982年の推定によると、2000年までに世界的規模で完全雇用を達成するには、10億の新規就労を見込まなければならない。ILO会長は「従来の雇用形態では、完全雇用はありえないことを良く理解しなければならない」と言う。
実際、従来型の経済専門家や政治家は、あれこれの政策によつて長期的には完全雇用を回復できると、自信なげに主張している。しかし、その主張はますますユ-トピア的な希望的観測にすぎないものになつてきている。省力技術の影響や国際貿易の圧力、さらに公共事業にたいする納税者の拒否感の強まりによつて、経済成長は望ましい点があるとしても、失業の残る成長になる可能性が次第に明らかになつてきた。
現在の雇用労働は、奴隷時代の奴隷労働がそうであつたように、不経済なやり方で重要な仕事をさせるものとなつている可能性を無視できない。眼の前に長期にわたる高い水準の失業がある上に、完全雇用はもはやもどつて来ないと見るほうが、現実的で責任感のある見透しであろう。現実的で責任感のある指導者ならば、この事態を考慮して行動しなければならない。
その正しい政策とは実際的であると同時にヴィジョンのあるものでなければならない。いま必要なのは、将来も失業が続きそうな事態に直面している幾百万の人々を安心させる実際的な行動である。職業倫理を宣伝し基礎所得と仕事とのリンクを言つてはいるが、幾百万の人々を失業状態においている社会は、その人々と社会自体を傷つけているのである。実際的行動はまた同時に将来展望を与えるものでなければならない。すなわち失業の当面の問題を解決する方策は、従来の雇用形態とは異なる働き方を組織する方策の一段階でなければならないのである。
公式の経済サミットは責任のある実際的な指針、換言すれば高い失業率と将来の労働についての世界的規模の問題を効果的に解決する現実的な政策とヴィジョンを提供できそう
にもない。「もうひとつの経済サミット」(TOES)の目的の一つは、これを正すことである。この論文はそれに貢献することを目的にしている。
2.将来の3つの働き方
将来の働き方については3つの異なる見方がある。第1の働き方のキ-ワ-ドは「雇用される労働」である。第2の働き方のキ-ワ-ドは「余暇としての労働」である。第3のそれのキ-ワ-ドは、「自分の労働」(Ownwork)である。
「平常どうりの営業」(Business As Usual)観に立つと、雇用労働は普通の働き方として続くであろうし、現金収入は雇われて稼ぐということになる。雇用労働の形態はすべての先進工業国で工業化時代から組織され、所得を支給する方式であつた。この考え方は左右両翼、中道派の間で今日なお続いている旧来の論争にも反映している。その論点は完全雇用が復活するか否かではなく、いかにして完全雇用を復活するかにある。それは先進工業国では労働時間を短縮し、製造業部門の雇用を情報、知識、サ-ビス部門が求める職務に移すことができるという前提に立つている。驚くにあたらないことだが、学界にこの見解を支持する者が多いのは、教育は将来の雇用の成長部門の一つと考えているからである。さらに希望的観測として、先進国の完全雇用と経済成長の復活は第3世界のための市場を拡大し、第3世界の雇用機会を拡大するという考え方がある。「平常どうりの営業」観に立つて、将来の労働も雇用形態が続くという見方は第一ブラント報告にもあつて、世界の経済問題を南北の相互利益になる形で解決する提案の土台になつている。
第2の見解はポスト工業社会についての超成長論者(Hyperexpansionist--HE)のビジョンに基づいている。HEのビジョンでは、工業化時代を通じた発展傾向は、これからも強化され加速すると見るのである。技能の優劣差、中核労働者と周辺労働者の差は拡大して、少数の市民の雇用だけで済むようになるというのである。少数の市民は高度の技能をもち、責任の重い仕事に就き、尊敬され、エリ-ト・テクノクラ-トとして高給を取り、オ-トメ工場を運営し、宇宙ステ-ションを軌道にいれ、知識の最前線で研究活動を行ない、自動化れた金融、通信、教育、保健、福祉サ-ビスを運営するために雇用される。その他の人間はやり甲斐のある有用な仕事がなく、「余暇」の生活をおくることになる。典型的な前期工業社会と対比すると、少数の卓越した雇用主と多数の低劣な雇われ者とへの分裂は、いわゆる余暇社会では、卓越した少数の労働者と低劣な多数の怠け者への分解ということになる。この見解は第3世界の将来の労働については、言及していない。
将来の労働の第3の見方は、ポスト工業社会についての別のビジョンンの一部であるが、新しい発展傾向に着目して、工業時代の傾向が継続するとか加速するとは考えない。この案は健全(Sane)、人間的(Humane),エコロジ-的(Ecological),つまり略称、SHEビジョンというもので、工業時代よりも、人間的成長、社会正義、エコロジ-の持続可能な発展に高い優先順位をおくものである。
現在の工業国にかんしては、社会の分権化が進み、次の社会では自分のために役立ちやり甲斐のある仕事を選ぶ人が増えて来ると予想する。働く人と余暇生活をおくる人とへの分解が進むことなく、多くの人々にとつては労働と余暇が一つになるのである。専門家がすべてを取り仕切る超サ-ビス社会になるのではなく、自助と共助の社会に移行し、自分の労働と生活を自分の意志で行なう人が増えてくる。工業化初期の時代の技術発展には中央集権化を促す傾向があつたから、自分自身の仕事を管理する能力を奪われ、経済自給の地域自立性を奪われた人が多く出たが、現在の技術の発展はそれとは異なる方向に向かつている。エネルギ-、食糧生産、調理、情報技術(パソコンなど)、建築、配管、装飾、電気工事、家具、衣料部門では--ハ-ドウエア部門でさえ小型で安価な多機能のロボットを装備し--技術が進み小型化したので、生産的な労働を家庭や近所に持ち帰り、地域での労働を地域の大抵のニ-ズに合わせることができるようになつている。ポスト工業社会は雇用社会や余暇社会ではなく、「自分の仕事」をする社会となるであろう。
第3世界の国々については、中央集権的な「浸透」("trickle-down")発展(先進国の発展が低開発国の発展を促し平等化が進む)戦略が進まず、フォ-マル経済での完全雇用
の達成のユ-トピア的な希望とは「異なる道」になると、SHEビジョンでは予想する。「異なる道」とは、地域の民衆が内発的発展の能力を身に付けること、経済的自立を促すこと、商品輸出と商業的作物への依存を減らすことを最優先するものである。第3世界では先進工業国と同様に、将来の労働の基本的な形は、民衆自身が管理できる小規模技術の採用を増やしていくことが特徴になる。
SHEビジヨンの予測によれば、先進工業国でも第3世界でも、あらゆるレベル--家庭、地域、地方、国--で、経済自立の拡充を目指す発展方向が強まることになる。国際経済にかんしては、従前の労働の国際分業の深まり、主食やエネルギ-のような基本物資の国際的依存の進展の方向とは逆方向になるのである。SHE案に賛成する人たちは、この流れには、さらに国際的緊張や将来の紛争を減らす利点があると考える。
3.新しい政策への取り組み
将来の働き方にかんして想定される3つの姿のうち、どれが最善であるかと言うよりは、どれが現実的であるかを考えると、実際の労働には3つのすべての要素が含まれると言うのが現実的な答えであろう。ある程度、労働は雇用の形で組織され、現金収入は雇用と結びついた稼ぎとなるであろう。ある程度、労働の技能格差の拡大、余暇の一般的な増加、職業と収入の関連の弱まり傾向は続くであろう。そしてある程度、地域経済は復活し、自営する仕事が増加し、労働と余暇の区別は曖昧になるであろう。将来の労働と失業問題への取り組みが現実的なものとなるには、これらの要素を全て考慮しなければならない。次に、それを確実に実施する一連の政策を要約することにしよう。
しかしながら、3つの働き方のうちどれがもっとも希望のある働き方と云うと、第3の働き方、すなわち自分の労働を中心とした働き方であるSHE案を重視しなければならない。この方向に進めば、仕事がないのにすべての人に働らけと説教する「平常どうりの営業」社会の悲劇を回避し、また優れたエリ-ト労働者が「ダメな怠け者」大衆を支配するHE社会の弊害を避けることができる。そのうえ、将来の働き方の実際の姿は、SHE案に近いものとなると見るのが安全な予測である。これは一部、負の理由からであるが、組織労働と賃金所得と福利厚生の給付による、現在の中央集権的な雇用ベ-スの道は崩壊し始めている。「平常どうりの営業」とHE案はこれにたいしてどのような救済策を提供できるかが分らないのである。その反対に、SHE案にはそれを支持する積極的な理由がある。その一つは、すでに述べたように、技術の新しい分野がSHE案の方に進んでいるし、民衆の価値観もこの方向に変化していることである。
次図の4つの経済セクタ-を見れば、家族と地域のレベルの経済の回復が工業国に明るい見透しを与えることがわかるであろう。
図 経済の4部門
資本集約型
大規模生産 大規模サ-ビス
地域中小企業
家族・地区部門
第1セクタ-(資本集約、自動制御、大量生産部門)の雇用は減少傾向にある。この部門の事業が国際競争下にある場合には、生産性の向上を続行しなければならない-これはこの部門の雇用が低落傾向を続けることを意味している。国際競争下にない場合には、その部門自体で雇用がさらに減る事態を表わしている。
第2セクタ-(大規模サ-ビス部門)の雇用も増えるよりは、やはり減ると思われる。5~10年以内に金融事業で進むオフィス・オ-トメ-ションや構造改革によつて、銀行、保険、商業部門では雇用が減り、公的予算の削減によつて、教育、保健のような国家の公共サ-ビスの増員ができなくなる。
第3と4のセクタ-(地域と家族の部門)は仕事が潜在的に成長する分野として残る。これらの部門の新しい仕事によつて、小企業での在来型の雇用が増えれば、医師、弁護士などの専門職の集団や商人などの自営業の仕事が増えるであろう。それはまたコミュニティ・ビジネスやコミュニティ組合のような地域活動や地域企業全体の発展を呼ぶことになる。その場合でも、コミュニティ・ビジネスやコミュニティ組合というものは、企業として成り立たなければならないが、常識的に言つて地域経済を独占するおそれはない。これと同様に、家庭や生活班の自家消費によつて物資とサ-ビスの自給生産が増える。換言すれば、後述するインフォ-マルな経済が大きくなるのである。
地域や家計部門の有用労働が拡大すれば、第1、第2セクタ-の大規模組織による雇用労働への依存が減るし、また物資やサ-ビスの面でもそれらの大企業や公共支出への依存が減ることになる。この依存が減少することは、二重の意義がある。第1に、現在、地域経済と家庭経済は、自分たちの手の及ばない雇用組織や社会福祉団体から見放された結果として失業や不況に見舞われているのであるが、これからは自分たちの地域や家族の福祉に直接かかわることができるようになる。第2に、地域や家族が日常的な労働とサ-ビスを自ら賄うことができるようになるので、第1、第2セクタ-の組織はいままで地域や家庭に提供していたその労働とサ-ビスから解放され、自分たちの固有の分野で効率をあげることができるようになる。このことは、国際経済市場で競争している企業にも、また自助や共助ではできないハイテク医療サ-ビスのような面倒な社会サ-ビスに従事している団体についてもあてはまることである。換言すれば、地域経済と家族(とそれに貢献する労働)の再生は、間接的ではあるが、国民経済と福祉国家の大規模な組織のさらなる発展にも基本的に貢献し、経済全体の効率と国際競争力を向上させる戦略にも貢献することになるのである。既成の思想に捕われた経済・政治学派は、このことがわかつていない。この論文で最も力説したいのはこの一点である。次に所得の問題に移りたい。
4.一連の政策づくり
この節では、このために必要な一連の政策づくりを例示しよう。さしずめ工業国の場合について述べよう。
収入
先進工業国では、大抵、市民が生計を維持するに足る所得の保障を義務づけている。しかしこの収入の確保は、通常、雇用の対価として支給されるという建て前になつている。失業手当や社会保障手当の形で国から所得を給付される人々は、不運な例外として取り扱われている。したがつて、これらの手当はほとんどの場合、受給者には研修やボランティアの仕事のような有用な活動に参加する自由を厳しく制限するという条件が付いている(万一雇用の機会があつたとき、就業の機会を失うという理由で)。この制度は人々が独力で賃労働に復帰しようとする意欲を著しく損なつている。この建て前は「雇用機会のない者は働くな」というに等しい。
今後10~15年間、高い失業水準が続き、完全雇用が回復する可能性がまったくないことを考慮すれば、この建て前は時代おくれと言わなければならない。手当の受給者が有用に時間を使い、自分で新しい収入源を見つけることを禁止しないように、制度の改革を今こそしなければならない。すでにこのために、若干の試みが部分的になされているが、弥縫策にすぎない。この問題の解決には、個人課税と社会保障手当を合理化して、「基礎所得の支給」にすることが必要になる。ちなみに「基礎所得の支給」というのは、すべての市民に非課税の生活維持費を国から受給する資格を与え、足りない部分は市民が選んだ他の収入源から補う自由を認めるという政策である。この構想は、専従的雇用労働から兼業的雇用労働、兼業的無償ボランティア労働、そして専従的無償ボランティア労働まで、人生の段階に応じて働き方を変えることができるように、各人にたいし労働と余暇の選択を柔軟に組み合わせる道を拓くであろう。
「基礎所得の支給」または「基礎所得の保障」は一石二鳥、三鳥の効果をあげるであろう。第1は、社会的見地から、失業中の人や社会保障を受けている人にたいする社会的偏見を解消することである。これらの人々は他の市民と同じく国から保障された基礎所得を受給するだけである。それはまた、手当受給者が収入を稼いだり立ち直ろうとする意欲を失わせているいわゆる「居座り貧乏」をなくするであろう。第2は、経済の見地から、基礎所得の保障によつて、雇用主が支払う賃金・給与のうち生活維持費分が別建てとなるので、労働市場における自由選択の可能性がひろがり、国民経済の中に競争が生まれる。第3は、より広い社会経済的な見地から、基礎所得の保障によつて、多くの人々が地域のボランティア活動やボランティアに準ずる活動に参加しやすくなるので、自分自身や家族や仲間の福祉やアメニティに貢献し、福祉国家への依存を減らすことができることである。
投資、資本と土地
完全雇用政策の時代には、雇用主が宅地、屋敷、備品、その他労働者の必要とする資本財を提供することが建て前になつてきた。雇用主団体が就業機会を創出したり維持できるようにするために、価格下落の補償金のほかに投資補助金やその他の融資助成金が交付されている。これらの形態の支援や刺激策は雇用による労働を優遇し、その他の働き方を差別するもので、自営業や地域零細企業の復活をいくらか妨害している。これらの支援策を自営業や地域の零細企業の生産的投資に拡大するよりも、むしろ全部一緒に廃止すべきである。廃止によつて受ける損失よりも、基礎所得の支給制度があれば、雇用主がその導入によつて受ける利益のほうが大きいであろう。
民衆が選択する地域の零細事業への融資は、中央集権的な金融機関が取り扱わないのだから、庶民の貯金をこれらへの投資に回す新しい機構や制度が必要となるであろう。実際、OECDのような組織は地域で雇用を創出する新規事業への金融の必要性に着目し始めている。資金がなく低所得の庶民が自分たちの「汗の結晶としての所有権」(Sweat Equity)(訳注廃屋に入居した者が自分で修理し、一定期間居住するとその人に所有権が移る制度)を勝ち取る新しい道--たとえば持ち家を建てたり、新しいコミュニティを作つたりできる方策を作り出さなければならない。イギリスには現在このような構想としてテルフォ-ド・ニュ-タウンのライトム-ア・プロジェクトとミルトン・ケインズのグリ-ンタウン・プロジェクトの二つがある。
このようなプロジェクトについては、コミュニティ土地トラストとコミュニティ開発トラストによる宅地保有などの新しい形の借地方式を作る必要がある。もっと一般的に言うと、働くための土地を必要とする庶民や地場企業が、自前の土地を入手できる方法を見つけなければならない。
都市計画・住宅建設・地域開発
現行の都市計画、住宅建設、地域開発政策は、雇用主の所有する財産によつて雇用主が仕事をさせる建て前になつている。そのため都市計画では、働く者が自分の家の中などで仕事をしないように、住居を生産目的に改造することを規制している。建築家は消費生活や余暇用の家を設計するけれども、生産的労働をするスペ-スは設けることはしない。地域開発政策では、地域住民がその地域で「自分の労働」をするのではなく、外部から雇用主をその地区に誘致するので、強靱な地域がいつまでも形成できなくなつている。庶民が自分の家で自分の地域で自分たち自身の労働ができることを優先するべきである。
雇用政策
従業員が仕事や職場づくりの点で雇用主団体に依存しなくても済むようにしなければならない。たとえば、余剰人員が自分たちで事業おこしができるとか、元専従者を一定期間契約社員として雇い、顧客の仕事を見けて最終的に自立できるようになるとか、余剰人員や定年退職者がボランティア活動に参加できるようにすることである。ワ-クシェアリングや兼業機会を男女従業員に与え、有償労働と無償労働にあわせて就くことができるようにする。イギリスにはこのすべての事例がある。小規模企業での例はすくないけれども。
余暇
完全雇用の社会では、労働と余暇は、厳然と区別されいている。人間は働いていない時だけレジャ-をとることができ、消費者はレジャ-用品やレジャ-・サ-ビスをレジャ-企業から購入するか、公的予算で提供されるという仮定ができあがつている。したがつて、余暇社会に賛成の人は、雇用されない人の数が増加すればレジャ-の施設やサ-ビスにたいする要求が増えると言う。
しかし、レジャ-産業やサ-ビスが手放しに発展するというのは、一部幻想的である。積極的に有用なレジャ-活動(ボランティア活動をする)や積極的に出費を節約するレジャ-活動(自家野菜の栽培や日曜大工をして家を修理する)、実際に金になるようなレジャ-活動ができるようにすることが力説されなければならない。換言すると、レジャ-が仕事と余暇の両方を含んだ有用で生産的な活動になるように、広範囲にわたる新しい政策が立案されなければならないのである。
教育と研修
オ-ソドックスな意見として、教育と研修によつて職が身に付くようにしなければならないと言われる。たとえば、イギリスで近年おこなわれている重要な新しい事業は、「若者研修」、「労働体験」、「能力教育」であるが、それらはすべて良い雇用労働者を作るための教育、研修、体験である。
これはかならずしも望ましいものではない。雇用の将来展望に立つと、力点をおかなければならないのは、雇用されなくても生活ができ、生産的なレジャ-ができ、また有用で生き甲斐のある仕事を自分で創ることができるような多様な実技の教育研修でなければならない。「自己実現のための教育」、または「自立のための協同の教育」こそが何が必要かを教えるのである。
保健と福祉
雇用労働から自分の労働と余暇への移行にともない、また地域・家庭部門の経済活動の復活とともに、保健と福祉が必要になつてくる。
多くの先進工業国の例によると、従来の福祉国家はもはや行き詰まりに来ていると思われる。健康の心理的要素を考慮したいわゆる「オルタナティブな」治療など、自助と共助に注目した治療と介護に重点を置かなければならない。病気の治療や悪化してしまつた社会問題の改善など後追い措置ではなく、人々が健康で安心して暮らすことのできる心身の状態を造り出す方向に切り替えなければならない。
保健政策と社会政策の切り替えは、脱雇用の労働形態への移行とそれと同時に進行する地域と家族の活動の復活によつて、直接的に促進されるのである。
製品、原料、テクノロジ-
地域と家族の部門(インフォ-マル経済を含む)が復興し始めると、販路がひろがるので、小企業の新しい技術が広範囲に発達し普及しはじめる。経営コンサル、金融マン、商工企業家がまずこの分野に入り込み、その他の目覚めた者があとを追う。そして関係省庁や研究機関、公共団体が潜在需要を調べて、必要な技術革新を推進することになる。
国際的意味
これまで述べた主導的な政策が直接的に影響を及ぼす範囲は、主として国内雇用の形態と国内経済に限られていた。しかし自立的な国内経済づくりが進み、第3世界の搾取が減ると、第3世界が取り組む経済自立の条件づくりを支援することにもなる。事実、これはかつて先進工業国が第3世界にたいして従来型の貿易と援助で進めたよりも、第3世界の発展に積極的に貢献することになる。あらゆる分野で工業国の最新の小規模技術が利用可能になるからである。これらの技術は工業国内で一般用に開発されたものであるが、第3世界では在来の開発政策にはなかつた規模の技術として活用されるようになる。
補足
この論文はTOESのために書いたので、政府が検討すべき政策転換に重点を置いている。
ここで重要なことは、脱雇用時代を特徴づける新しい労働形態は、基本的に政府によつては創造できないということである。新しい労働の形態は民衆のエネルギによつて生まれ、民衆自身の事情とニ-ズと価値観に応じて作られるのである。
政府の役割は重要であるが、政府の役割は主として促進ないし障害の除去にあるのである。たとえば失業者にたいする所得の給付がそうであり、都市計画や住宅政策、地域開発政策について言うと、現状では人々が生産的で有用な仕事をしようにもできないため、やむをえず、その結果として、雇用労働に依存していることの背景にある政策が対象になる。政府の仕事とは、民衆に権限を与え、民衆が依存を脱皮し、現在よりも事業を起こしやすくし、経済と福祉の向上を自力でできる新しい機会と責任を持たせるようにすることである。
5.労働の属性-再検討
雇用の時代には、労働のある種の属性は当たり前と考えらてきた。しかし現在は再検討しなければならない。
依存的な活動としての労働
雇用が労働組織の普通の形態となつたのは、一般民衆が土地から追い出された時代である。たとえば、イギリスでは17~18世紀の土地の「囲い込み」によつてである。当時、「囲い込み」は一般民衆の経済的自立の機会を奪い、かれらが賃労働に依存し、雇主のために労働をするようにしたことは、良く知られていた。「これによつて社会の下層階級の従属を大いに確保しよう」としたのである。
工場制度の導入は労働者から自治を奪い取つた。たとえば、18世紀初期の織物職人は、貧乏ではあつたが、自分の仕事に責任を持ち、他の家族と協調しながら、話をしたり、歌つたり、自分たちできめた時間に食事をしたりして、すくなくとも家族集団で働いていた。工場の規則はその全てを禁止した。
それ以来、科学的管理は仕事場での従業員の自治を制限することを目指して発達してきたと言われる。そしていまでは、疑なく、大抵の人々が仕事を提供する雇用主への依存を当然のことと考えているようである。18世紀の庶民たちは賃金労働者になることに反対して抗議をしたり暴動をおこしたりしたのであつたが、20世紀の労働組合は雇用に依存する権利のために抗議やストライキをしている。
リモ-ト・コントロル下の活動としての労働
雇用時代に個人も家族も自身の労働を管理できなくなつたように、都市も地区も地域も自分を管理する力を失つた。先進工業国でも第3世界でも、現場労働者は他でなされた決定に従つて動いている。個人も家族も他人が作つた製品やサ-ビスを買うための金稼ぎに依存するようになつが、それと同様のことが、地域でもおこなわれている。世界中の市町村が弱体化しているのは、地域経済の自給自足が失われた結果で、個人レベルでも失業すれば経済的に自立ができなくなり弱体化するのと同じである。
専門化した活動としての労働
200年前にアダム・スミスが「国富論」を書いて以来、専門化は経済の進歩を意味するものとして尊敬されてきた。市町村や地域は炭鉱、製鉄、造船、果樹栽培、コ-ヒ-栽培、漁業、観光、ガラス製造など、さまざまに専門分化している。職種は何であれ、専門家とか専門化した地域は、自分の管理できない経済の変化に弱くなつている。この脆弱性は現在の世界の経済的、社会的問題の基本的特徴である。この現象は先進工業国だけではなく、第3世界でも同じで、その被害はいっそう大きい。
人や地域にとつても、経済の専門特化は限度を越えないにしても、すでに限界に達している。専門化の費用と便益を自給自足のそれと比較すれると、現在では後者のほうが有利になる傾向がある。
道具化した活動としての労働
工業化社会の発展につれて、労働は個性がなくなり、労働の目的は庶民の生活から遊離してしまった。
そのひとつの原因は、初期工業化時代の典型的な技術が分業の発達を要求したことであつた。分業は大規模な組織に適していた。それは家内労働を工場に連れ出し、小工場を整理して大工場に置き換えた。そして鉄道交通と道路輸送によつて、長距離通勤が次第にを可能になった。そしてついに後期工業社会になると、労働者大衆は家庭や家族、隣近所、また友人、居住地域と関係のない場所でまた関係のない目的のために、労働生活のエネルギ-を使い果たすことを承諾するようになった。労働は補助手段化し、本来の目的を失なつてしまつた。
雇用労働が道具化した結果、労働者は自分の労働成果に3つの点で責任感を持たなくなつた。3つの点とは、労働を通じて自分自身が成長すること、他の人の為になること、自然環境をよくすることである。工業化時代の支配的な経済思想は、個人の成長のニ-ズ、社会的公正、エコロジ-にたいして無関心であつたので、支配的な労働形態(雇用)からはこれらの要件が除外されてしまつた。
フォ-マルな活動としての労働
工業化以前の祖先は、市場経済がないところでは、財やサ-ビスを自給または交換するために働いていた。しかしわれわれの時代には、賃金労働者として顧客のために働いている。換言すると、労働はインフォ-マル(実質的な)経済からフォ-マル(形式的な)経済に移行したのである。公式化の過程はあらゆる分野に貫徹しているので、政治家、経済専門家、事業家、労働組合指導者、その他、多くの人々は、雇用形態をとる労働と金銭による取引形態が行なわれるフォ-マル経済が唯一の経済の形と見なしている。
したがつて生産額を表示するには、GDPやGNPのように、フォ-マル経済の貨幣取引額によつて示される。これは投下労働の金額で計られ、働く人の数は雇用労働に従事する人数で計ることになる。過去の経済進歩と将来の経済事業の目標としてのGDP,GNPの欠点は、既によく知られるところである。労働については、有償労働は積極的価値があつて、無償労働は価値がないという誤解である。たとえば、すべての人が食事を家庭ではなくレストランでしたとしても、これが生活水準や生活の質の向上を意味するものではないのであるが、統計では後者の投下労働が大きい価値を表示することになる。
国民の経済的、社会的活動の評価は経済専門家や会計士や統計官でなければできないという常識は、工業化時代にいろいろの分野でおこなわれてきた型どうりのいわゆる「デカルト」的考えによるものである。しかし、この数年間、計量化される現象だけが重要であるというこの認識方法の恣意性と不合理性は、医学や科学の分野で批判され始めた。これと軌を一つにして、この数年、われわれの実際生活は、インフォ-マル経済とフォ-マル経済との二重経済で行なわれること、フォ-マル経済以外に自分と他人のためにすることに意義があること、また将来、インフォ-マル部門の活動が経済的社会的進歩と労働にとつてもつとも重要で発展する分野であることを悟る人が増えてきた。
男性の活動としての労働
雇用形態の普及とともに、男性の仕事と女性の仕事の亀裂が深まつた。雇用が19世紀と20世紀の労働の支配的な形態になつたので、父親は外で働き、母親は家庭で主婦業の専念することになつた。生活のなかで金銭の力が大きくなるにつれて、賃金を持ち帰る男性の労働のが女性の無報酬労働よりも地位が上になつた。その結果、女性から雇用の男女平等の主張が出てきて、現在では有償労働にかんしては女性にたいする公正な扱いがなされるようになつた。しかし男女平等はまだ不十分で、大抵の男性にとつては無償の家事・育児労働を公正に分担することは気の重い不得意な仕事である。真に重要な仕事は賃金を支払う雇用主の仕事であるという考えがまかり通り、実際それが優先するのである。
工場、事務所、そのほか労働機関で高い地位にある人々の多くは一般に男性であるが、この人たちは身近に必要な仕事はしていない。それとは対照的に、女性は家庭の典型的な無償労働である育児、炊事、裁縫、高齢者・病人の介護、子供の教育、家の雑事をしている。これは矛盾である。工業時代の男性の仕事は抽象的で没個性的で組織的なものである。たとえば工場の運営、事務所の文書、銀行の資金、大学の研究がそれにあたる。これに対し、女性の労働は具体的な目的をもち、人間に関係したもの、基本的な人間のニ-ズに関係のあるものである。
次の3つの要素によつて、男女の地位が逆転しつつある。第1は、多くの工業国での意向調査によれば、男性の価値よりも女性の価値のほうが高くなつていることである。工業化された現在の生活様式の危機は、男性の価値の危機であるという考えが広まつている。第2は、肉体的強靱性のゆえにこれまで男性が行なつてきた肉体労働を機械がするようになつたことである。第3は、将来の普通の労働については、男性が従事してきた継続的なフルタイム雇用がモデルとなるのではなく、女性が行なつているように、パ-ト・タイムの雇用労働、家事労働、ボランティア労働、フル・タイムの雇用労働を交替で行なうフレキシブルな混合型のものになることである。
疎外された活動としての労働
雇用労働が他の形態の労働よりも優勢になるにつれて、労働の地位が低下するのは女性層だけではない。定年退職者たちは社会に役立つ人生は終わつたと思うし、労働市場に参入する資格のない未成年者は、社会に貢献できないと感じ、失業者は社会から除け者にされていると思う。高齢者、若者、失業者のいずれも、役に立つインフォ-マルな労働に携さわることもできない。労働者は雇用か、転落かの二者択一迫まられる。雇用されるか、失職するか。経済に貢献するのは雇用労働で、雇用労働から外されれば、他の労働者に負担をかける負い目を背負うことになる。
経済学にとつての意味
雇用労働にまつわる依存、リモ-ト・コントロル、専門分化、労働の道具化、労働のフォ-マル化、男性偏重、疎外などの属性によつて、経済、社会、個人は深刻な衰弱に陥る。この論文の前段で述べた新しい政策が奨励するのは、依存からの脱却、個人と地域の自主管理、多能工化、各自目標を持つこと、インフォ-マル経済の重視、男女の価値の平等化、すべての人に有用な仕事に就く機会を保障する包容力を備えた新しい労働形態である。
雇用とは異なる新しい労働形態の普及は、思考のシステムである経済学にとつてどんな意味があるか。
実際、経済学の時代は雇用時代と一致していた。過去わずか200年の間に、雇用は労働の主要な形態となり、ついに完全雇用(希望者全員に雇用を提供する)は政府の政策目標になつた。同様に、わずか200年の間に、経済学は人間問題を理解し管理する方法となり、経済政策は政府の中心的政策となった。雇用の時代が終わろうとしているとき、これは経済学に何を意味するであろうか。
たとえば、個人レベルでは、経済学は有償労働、インフォ-マルな家庭と家族の労働、ボランティア労働、余暇活動などの各種の組み合わせのコスト・ベネフィットを評価する学問になるであろうか。地域レベルでは、地域経済が外部の国家や国際経済に依存する場合と比較して、自給度(すなち地域の労働を用いて地域のニ-ズに見合う財とサ-ビスの生産)を変えるときのコスト・ベネフィットの評価に役立つものになるであろうか。そのほかにも、既成の経済学が無視してきた各種の労働とそれに関連した人間活動の価値について、いくつものの研究事項が発生してくる。経済学は、雇用労働の支配的な工業時代の価値を反映した短期の予測と投機の手段になつてしまうかどうかが問題である。また、経済専門家が真の人間(ホモ・エコノミカスとしての人間ではなく)の広範なニ-ズと活動を反映する選択の原理を、社会的公正と持続可能なエコシステムの考察とともに、開発することができるかどうかが問題なのである
シュンペーター
しゅんぺーたー
目次:
シュンペーター
Joseph Alois Schumpeter
[1883―1950]
ケインズと並ぶ20世紀前半の代表的経済学者の一人。マルクスが死に、ケインズが生まれた同じ1883年に現チェコ領モラビアのトリューシュで生まれ、長じてウィーン大学法学部に入学。初め歴史学に関心をもったが、のち経済学に転じ、ベーム・バベルクの強い影響を受けた。チェルノウィッツ大学、グラーツ大学の教授を歴任し、第一次世界大戦直後の一時期、オーストリア政府の大蔵大臣を務め、同国の民間銀行の頭取として実業界で働いたこともある。1925年にボン大学の教授となり、32年以降はアメリカに移住してハーバード大学の教授となった。計量経済学会の創立者の一人で、その会長やアメリカ経済学会の会長も務めたことがある。1950年1月7日、アメリカのマサチューセッツ州タコニックで死去。
シュンペーターは 25歳のときに処女作『理論経済学の本質と主要内容』(1908)を著し、ついで4年後の著作『経済発展の理論』(1912)で一躍、世界的にその名を知られるようになった。前者は、ワルラスの静学的一般均衡理論や当時のオーストリア学派の強い影響のもとに書かれたものであったが、後者ではすでにその動学化が図られている。シュンペーター経済学の核心ともいうべき経済発展の理論は、資本主義発展の原動力としての「企業者機能」に焦点をあてたところに特色がある。
彼によれば、資本主義発展の担い手としての企業者が導入する新機軸innovation(技術進歩、生産組織の改善、新製品開発、新しい販路の開拓など)が経済発展の動力であり、それを可能にするのが銀行による信用創造であるという。この中心的な構想は、後年の大作『景気循環論』(1939)でも受け継がれ、新機軸導入による「創造的破壊」が景気循環を生み出す源泉であるとして、理論的、歴史的、統計的分析によって裏づける努力がなされている。ところが、晩年の代表作『資本主義・社会主義・民主主義』(1942)では、経済社会学的な考察から、資本主義の発展につれてこの企業者機能が衰退することや、政府介入の増大に伴う民間活力の弱化などの要因とあわせて、独特の資本主義崩壊論を導き出すとともに、社会主義がいかにすれば民主主義的になりうるか、という比較体制論的なところまで視野を広げている。そのほか、死後刊行された『経済分析の歴史』(1954)などの優れた著作がある。
[佐藤経明]
日本大百科全書
資本主義・社会主義・民主主義
しほんしゅぎしゃかいしゅぎみんしゅしゅぎ
目次:
資本主義・社会主義・民主主義
Capitalism, Socialism , and Democracy
J・A・シュンペーター晩年の代表的な経済社会学的著作。1942年刊。「資本主義は生き延びうるか」という問いを提起し、その答えとして独特の資本主義崩壊論を提示したことで知られる。資本主義発展の原動力は新機軸innovationを導入する企業者機能にあるが、経済発展に伴い、この新機軸導入が日常化することで企業者機能の重要性が薄れ、さらに政府介入の増大による民間活力の衰退などの要因も加わり、資本主義は輝かしい成功のゆえに崩壊するというのが、その中心命題である。
[佐藤経明]
社会保障
ぎょうせいこっか
目次:
行政国家
administrative state 英語
Verwaltungstaat ドイツ語
立法府である議会、司法府である裁判所に対して、行政府が相対的な優越性をもつ国家類型。立法国家、司法国家に対比して用いられる概念である。
類型的に理解された19世紀段階の国家の役割は、市民社会の自律的運行の秩序を外在的に保障するものとして、しかも、そこでの国家統治の重心は立法機能にあり、行政機能は必要最小限にとどまるべきであると考えられていた。消極国家、夜警国家、立法国家などと称されるゆえんである。しかし、その後の資本主義社会の諸矛盾、たとえば不況、失業、生活困窮などの社会問題の発生は、市民社会に対する国家の積極的介入を必然的なものとし、20世紀段階の現代国家においては、国家機能、とりわけ行政機能の拡大・強化の現象が顕著となった。現代行政は、国民生活と広範かつ密接に関係し、また、行政計画、委任立法、通達、行政裁量、行政指導等による行政の増大、行政官僚制の発達、および他方における議会の立法機能の弱体化・形骸(けいがい)化などにより、行政府は国家政策の形成・決定において実質上中心的な地位を占めるに至った。このような行政権優位の現象がみられる現代国家を、政治学的・行政学的には行政国家と性格づけることができる。
法律学上の概念としての行政国家とは、私法とは異質の、行政に特殊固有の法の体系としての行政法をもち、行政に係る争訟に通常の司法裁判所の管轄を排除する特別な行政裁判所制度をもっている国家をいう。その具体的形態は、時代により国により異なるところがあるが、ドイツ、フランスなどがその例である。
わが国の現行憲法は、かつての行政裁判所制度を廃止し、行政訴訟事件も通常の司法裁判所に係属することとしたので、戦後日本は、法律学的意味においては、行政国家から司法国家に転換したといえる。しかし、政治学的意味における行政国家化の現象も顕著である。
[三橋良士明]
日本大百科全書
社会保障
しゃかいほしょう
目次:
社会保障
1. 欧米の社会保障の歴史
2. 日本の社会保障の歴史
■ 前史
■ 社会保険の制定
■ 国民皆保険体制
■ 社会福祉理念の具体化
■ 社会保障熟成・変容期
■ 社会保障制度改革
■ 高齢者介護問題
3. 現況・課題
social security
現代資本主義が生み出す貧困・生活不安などの生活問題に対して、国民生活を保障することを通して、国内・国外の社会主義に対抗しつつ現代資本主義国家を維持し、延命を図ることを目的とした生活保障政策をいう。社会保障という用語は、1933年アメリカ合衆国で経済保障あるいは所得保障にかわるものとして造語されたもので、それが35年社会保障法として初めて公用語として使用された。しかしその内容は、ヨーロッパ諸国の制度に追いつこうとしたものにすぎない。社会保障は、W・チャーチルの有名なことばを借りれば、「揺り籠(かご)から墓場まで」の国民生活を保障するものである。国民の生活は、失業、労働災害、傷病、老齢などの生活上の事故で所得が中断または永久に失われたり、支出が増大したりして、脅かされたり破壊されたりする。子供の誕生と養育とで支出が増加したりもする。また、年齢が若かったり逆に年をとりすぎていたり、また心身に障害があったりして、家庭生活を1 人ないしは家族でできない場合もある。こうした事態に対する国家による個人または世帯単位での国民生活の保障策の総称を社会保障という。
以上のことと現代日本の国民生活の現状とをあわせ、社会保障のライフ・サイクルごとの必要度をまとめると以下のようになる。
〔1〕幼年人口期(0歳以上15歳未満)の所得と家事の保障の必要度は、両親による扶養が当然なので、きわめてまれである。医療保障は、生涯を通じて不断に必要であり、その必要度はライフ・サイクルごとに大きな違いがある。施設出産が98%である今日、誕生時と直後の必要度は絶対的である。その後15歳前後をボトムに、加齢とともに高まる。
〔2〕生産年齢人口(15歳以上65歳未満)の所得保障の必要度は、雇用状況に影響される。完全雇用状態であれば必要度は小さい。2001年(平成13)以降、雇用不安状況にあり、高くなっている。医療と家事の必要度は、健康と家族環境に左右される。
〔3〕老齢人口期(65歳以上)の所得保障の必要度は、当然のこととして絶対的に高くなる。医療と家事の必要度は、身体状況と家族環境により決定され、しだいに高くなる。とくに医療は「畳の上では死ねない」といわれるように、病院で病名がついて死ぬのが今日の死に方であり、医療はまた絶対的に必要となってくるのである。
こうして社会保障は、国民の生活を保障するため、まず健康を守るために医療を、ついで消費生活のために所得を、そして身の回りの世話のために家事を保障する。医療の保障は、日本を含め大多数の国における医療保険体系と、医療サービス体系とがある。医療保険体系は複雑で、(1)中核である医療保険、(2)医療保険を補完する各種医療保障制度、(3)最終的手段としての公的扶助による医療扶助、(4)業務上の傷病に対する労働者災害補償保険によって行われる。これに対して、医療サービス体系は、医療機関を公営化し、医療そのものを無償とするものである。イギリスなど8か国が実施している。医療保険の制度的限界を超えたものである。
所得の保障にも2通りある。
〔1〕所得そのものの直接保障。所得保障の中核で、失業保険、医療保険の傷病手当金、年金保険などの社会保険、家族手当、公的扶助による生活扶助などがある。これらのうち中軸は年金保険で、最終的手段が生活扶助である
〔2〕所得補償。失われた労働能力に対する損失補償で、労働者災害補償保険で行う。家事の保障は、社会福祉と、一部を例外的に公的扶助で行う。
このように社会保障は、(1)失業保険、労働者災害補償保険、医療保険、年金保険などの社会保険(医療に関しては医療サービス)、(2)家族手当、(3)公的扶助、(4)社会福祉の四本柱で構成されている。
欧米の社会保障の歴史
社会保障が成立するためには、貧困を資本主義社会の社会的・必然的な産物としてとらえ、国家の責任で貧困対策を行うことが前提となる。社会保障前史である資本主義社会の成立期(15世紀末~1760年代)と確立期(1760年代~1870年代)にあっては、貧困は、個人の努力の不足、怠惰の招いたもので、「自然の刑罰」であると考えられ、貧困は個人の責任であるとされていた。これでは貧困対策は、国家的対策として実施される可能性はなかった。1531年以降イギリスで行われてきた救貧法は、「自然の刑罰」の執行人といったもので、労働能力非所有者であわせて家事能力非所有者である子供、老人、障害者、病弱者のみを対象とした社会保障前史に属するものである。西欧の先進資本主義諸国は、1873年の経済恐慌をきっかけとして20年余にもわたる慢性不況にみまわれた。慢性不況は、大量かつ長期の失業者を生み出した。さいわいに失業の憂き目にあわず雇用されていた労働者も、失業者の存在が重圧となって低賃金や劣悪な労働条件を押し付けられた。これらの結果、当然、貧困者は増大した。失業は「社会の疾病」と考えられるようになった。失業による貧困が一般化すると、貧困は、それまでのように個人の責任ではなく社会の責任であると理解されるようになった。こうして、国家は貧困に関して責任を問われるようになり、貧困対策は国家の責任となった。
社会保障は、社会政策としてドイツで始められた。社会政策の中心は社会保険であり、1883年に疾病保険法、84年に災害保険法、89年に廃疾・老齢保険法が成立した。これらは「ビスマルクの社会政策三部作」とよばれた。それは慢性不況に伴う社会主義勢力の台頭に対する弾圧策=「ムチ」に対し、労働者階級の懐柔策としての「アメ」であった。慢性不況は、失業者という労働能力所有者ではあるが無所得者を生み出した。国家は、労働運動の激化に対処するために失業者を救済せざるをえなかった。そこで救貧法を所得保障策=公的扶助と家事保障策(あわせて所得保障策も行う)=社会事業とに発展的に解消することが求められた。
貧困が社会的要因によるものであり、国家は公的に貧困者を保障する責任と義務があると考えられるようになると、貧困者には保障請求権があると了解されるようになり、しだいに公的扶助が確立した。こうして救貧法は公的扶助へと前進し、1891年、最初の公的扶助がデンマークで誕生した。さらに、貧困者対策の一翼を担うものとして家事保障策に特化していく社会事業も発足した。残された失業保険は、1911年、イギリスのロイド・ジョージの国民保険第二部として誕生した。26年には家族手当がニュージーランドで始められた。このように対労働者対策の社会保険と家族手当、貧困者対策の公的扶助、社会事業とに分かれていたこれらの制度は、29年に始まった世界恐慌をきっかけに第二次世界大戦中および戦後を通して、国民すべての生活を等しく守る社会保障へと発展したのである。
社会保障への前進には、貧困要因の変化が必要であった。社会保障は、失業、不規則労働、低賃金という「都市型貧困」には基本的に対処できない。これらに対応できるのは労働政策である雇用政策、最低賃金政策である。社会保障の確立には、貧困要因が病気、老齢という「身体的要因」へ移行することが不可欠である。この変遷は、第二次世界大戦終了後初めてS・ロウントリイによって証明された。また、社会保障の成立には積極的財政政策を可能とする金本位制にかわる管理通貨制の採用が必要であった。この導入は1930年代に行われていた。社会保障への転身には、これら経済的要因に加えて政治的な要因も必要であった。46年から始まった冷戦体制に基づく体制優位競争が、政治的要因をもたらした。資本主義諸国は、社会主義の理念である結果の平等を社会保障の実施で達成しようとしたのである。
現代資本主義社会において、組織的な社会保障が政策課題となったのは第二次世界大戦後のことである。高度経済成長のもとで完全雇用状態が出現し、被用者の生活安定が雇用の保障とともに達成されるようになった。ついで、社会保障によって労働能力をもたないものの生活が保障されるようになったのである。社会保障は、まず公的扶助を中心に貧困対策として展開された。ついで、高度経済成長とともに貧困は解決され、社会保障の中核は医療保険による健康保障に移り、国民の健康が維持されて長寿が一般化する。そのため、人口の高齢化とともに年金保険が社会保障の主役となる。こうして社会保障は、年金保険による所得保障、医療保険による健康保障、それに老人福祉による家事保障が三位一体となり、老齢者の生活保障策として展開されるようになる。このように高齢化社会においては社会保障が最重点政策課題となるのである。
日本の社会保障の歴史
前史
日本の社会保障の前史は、1874年(明治7)の恤救(じゅっきゅう)規則に始まる。恤救規則は、きわめて制限的に実施され、救済率は低く(全実施期間の救済率は0.3%)、国民生活を保障するものではなかった。日本は第一次世界大戦下において未曽有 (みぞう)の好況を経験した。しかしその間、国民の生活は好況に伴う物価高騰、とくに米価の騰貴のため窮乏化し、社会不安を増大させた。1918年(大正 7)には米騒動が勃発(ぼっぱつ)し、初めて貧困問題が日本資本主義を根底から揺り動かし、労働運動もロシア革命の影響を受けて闘争主義的傾向を強めた。 20年には第一次世界大戦の反動で「戦後恐慌」に襲われた。この反動恐慌後、日本経済は「二三年恐慌」、「金融恐慌」(1927)、「昭和恐慌」(1930)と不況から不況へとよろめき歩き、慢性不況の過程をたどった。慢性不況に伴った失業問題、農業問題は、放置しがたい深刻さを加えていった。
社会保険の制定
こうしたなかで1922年、日本最初の社会保険法である健康保険法が制定され、24年施行予定であった。しかし、関東大震災のため準備が遅れて27年(昭和2)施行となった。健康保険は、ブルーカラーのみを対象としホワイトカラーを排除していた。慢性不況は恤救規則では対処しきれない貧困問題を生み出した。29年救護法が制定され、30年施行予定であった。しかし、内閣が交替し政策がかわり、施行は無期延期となってしまった。「天皇の赤子(国民のこと)をして飢えしむるなかれ」という天皇制国家の理念を逆手にとった民生委員の前身である方面委員、社会事業関係者を中心とした救護法実施期成同盟の運動により、ようやく32年施行となった。慢性不況は農業恐慌という形もとり、農民の生活をも破壊した。そこで38年に貧困と疾病との悪循環を断ち切るために農民保険として国民健康保険法を制定、実施した。39年には国防上の海運政策から船員保険法が制定され、翌年から実施された。船員保険は医療保険部門と日本最初の年金保険部門からなっていた。船員保険の年金保険部門をきっかけに陸上労働者のための労働者年金保険法が41年に制定され、翌年から実施された。労働者年金保険は軍需インフレ防止のための国民の購買力の封鎖減殺と、労働者移動防止対策いわゆる労働者の足止め策として設けられ、労働者の老後生活保障のためではなかった(一部でまだ主張されている戦費調達のためでもない)。44年には制度改正とともに時局に調和した名称、厚生年金保険法に改められた。
社会保障は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が行った一連の民主化政策の一環として発足した。被占領期の社会保障はまず、1946年(昭和21)制定・施行の生活保護法(旧)である。救護法にとってかわった軍事扶助法を中心とした戦時社会政策は、非軍事化・民主化という占領政策に反していたからである。さらにその後、社会経済状況の変化に対応して50年に現行の生活保護法にとってかわられた。ついで、失業保険法、労働者災害補償保険法が47年に制定、実施された。失業保険はまったくの新顔であり、労働者災害補償は健康保険、厚生年金保険が代替していた。これで日本の社会保険は、失業保険、労働者災害補償保険、医療保険、年金保険からなる形の整ったものとなった。これに、生活保護の特別法という性格をもち生活保護を補完する緊急対策である児童福祉法(1947年制定、翌年施行)、身体障害者福祉法(1949年制定、翌年施行)が加わる。
国民皆保険体制
日本経済の1955年から73年までの高度成長は、完全雇用を達成して日本を「豊かな社会」にした反面、ひずみも生み出した。社会保障の第2期である。56年になると国民各階層間の所得格差の是正が問題となり、中小企業の福利厚生施設の不足、社会保険の未適用など社会保障の不備が指摘されるようになった。58年国民健康保険法は改正され、翌年から施行され、61年から完全実施となり「国民皆保険」体制となった。農民保険として発足した国民健康保険は、新たな普及対象が都市の中小企業労働者であったことの結果、都市の中小企業労働者向けの都市保険に変身したのであった。59年には国民皆保険体制を必要とした要件に、次の要因が加わって国民年金法が制定された。国民年金は、まず当面の課題である老齢者、母子世帯、身体障害者などに対する所得保障策としてと、地方公共団体の「敬老年金」の国策化要望にこたえるためであり、これには福祉年金がこたえた。次に、年金保険未加入者対策と人口の老齢化対策が求められ、これには拠出制国民年金がこたえた。保険料負担のない無拠出制国民年金(福祉年金)が59年に実施され、61年に拠出制国民年金が実施されて、「国民皆年金」体制への道を歩み始めた。受給資格に保険料負担実績を問わない医療保険は、実施とともに給付体制が確立する。これに対し、保険料負担実績を問題とする年金保険は、給付体制が実現化するのに何十年もかかる。「国民皆保険」体制は発足と同時に達成したが、「国民皆年金」体制の確立は1980年代に入ってからであった。
社会福祉理念の具体化
1960年代前半には所得格差というひずみへの対策のほかに、積極的社会福祉理念の具体化が求められた。これにこたえたのが精神薄弱者福祉法(1960年制定、施行)、老人福祉法(1963年制定、施行)、母子福祉法(1964年制定、施行)、母子保健法(1965年制定、翌年施行)、心身障害者対策基本法(1970年制定・施行)などである。これらのうち老人福祉法は、世界最初の老人に対する単独独立福祉立法である。71年には、日本の社会保障制度中ただ一つ欠けていた家族手当が、児童手当法という法律名で制度化され、翌年から施行された。これにより日本の社会保障は、西欧並みの社会保険、家族手当、公的扶助、社会福祉の四本柱で構成されるものとなった。児童手当法を制定させた要因は、消費者物価の上昇、賃金構造の変化、教育費と養育期間の増大などである。高度経済成長期の社会保障制度の新設・改正の動きは以上のようであるが、これに、改正年はオイル・ショック後の低成長経済期の74年(施行は翌年)にずれ込んではいるが、高度経済成長期的視点の制度改正である失業保険の全面改正による雇用保険法が付け加えられる。
社会保障熟成・変容期
日本の社会保障は1970年代になると充実しだし、政府は「福祉国家」を標榜(ひょうぼう)し始め、73年度の予算編成にあたって73年を「福祉元年」と宣言し、財政政策の一つに国民福祉の向上を取り上げた。福祉元年の内容の第一は、71年から始まった拠出制国民年金の「10年年金」の給付開始である。第二は、72年からの児童手当の給付開始である。第三は、73年からの老人医療費支給制度の発足である。これは70歳以上の老人の自己負担分を国・地方公共団体などが肩代り負担するものである。一般に「老人医療の無料化」といった。第四は、健康保険の給付の改善、保険財政の健全化である。給付の改善の中心は、家族給付率の5割から7割への引上げと、高額療養費支給制度の新設である。保険財政の健全化は、政府管掌健康保険(以下、政管健保)における83年度末までの累積収支不足額(約3033億円)の棚上げと、政管健保についての定率10%国庫負担の新設などである。第五は、73年の年金保険の改正による「5万円年金」の実現と物価スライド制の導入である。これによりこの年は「年金の年」ともいわれた。
1973年秋に始まった第一次オイル・ショックは、あらゆる社会的、経済的事象をさま変わりさせ、日本経済は低成長期に入った。ただし、完全雇用状態は維持され続けた。順調な経済成長のもとで質的、量的に拡充・成熟してきた社会保障は、経済成長の鈍化とともに変容を迫られた。政府の社会保障に対する態度は一変した。社会保障は、「社会的不公平の是正」策というプラス・シンボルから「金食い虫」というマイナス・シンボルへと転落した。73年の「福祉元年」の「成長否定・福祉優先」政策による福祉国家志向から、75年の「福祉見直し論」の出現、さらに80年代初めの「自助努力論」の流行と、社会保障をめぐる世論も目まぐるしく変わった。こうして社会保障政策は、「財政危機」を回避するための国庫負担の軽減、国民負担の増大を求めるものに変わってきた。
社会保障制度改革
1980年代前半、日本も欧米先進資本主義諸国に後れて社会保障の制度改革に取り組まなければならなくなった。その要因の第一は、高度経済成長期に体系が形づくられた社会保障制度、なかでも年金保険の成熟化に伴う社会保障関係総費用の増大である。第二は、オイル・ショックに基づく労働力需給の頭打ちと失業者の増大による被用者社会保険の被保険者数の増加の鈍化、賃金上昇の低迷による保険料収入の伸び悩み、高度経済成長期に決定した給付水準が財政的に重荷になってきたことなどである。第三は、社会保障の充実が国庫負担の比率を伸ばす方向で行われてきたことである。第四は、これらの結果としての一般会計予算に占める社会保障関係費の拡大である。第五は、国庫負担をまかなう歳入の中核である租税がやはり経済成長の鈍化に伴い伸び悩み、赤字国債への依存度を上昇させて、財政赤字を顕在化させたことである。第六は、社会保障、とくに年金保険、老人福祉の与件である人口の老齢化の進行である。第七は、医療保障の与件となる医学の進歩に伴う医療技術の高度化、高額医療機器の普及、医薬品の高額化などによる医療費の高騰である。これには人口の高齢化による有病率の上昇、疾病の慢性化、疾病構造の変化なども付け加えられる。
これらの諸要因と、高度経済成長に基づく産業構造の変化が生み出した就業構造の近代化と高度化=第二次・第三次産業就業者の増大と被用者比率の上昇とが、1980年代前半において一連の社会保障の制度改革を求め、実施に移されている。改革の第一段階は、これまでの日本の社会保障の中核で費用の大半を占めていた医療保険を中心とした医療保障分野で行われた。73年に始まった老人医療費支給制度は、医療保険の自己負担分の公費肩代りにすぎないものを厚生省(現厚生労働省)が「老人医療の無料化」としたため老人医療費の急増を招き、国庫負担を増大させた。そこで、82年、老人保健法を制定し、各医療保険保険者にも費用を負担させ、国庫負担減を図ることにした。さらに、84年からは被用者医療保険本人の給付を1割自己負担とし、受診の抑制を図り医療費の伸び率を押し下げることにした。また、退職者医療制度を創設し、被用者医療保険にも費用負担させ、国民健康保険と国庫負担の軽減をねらい、負担の公平化を図ることにした。
第二段階は年金保険の改革である。年金保険の費用は、年金保険の成熟と老人人口の増加により必然的に急増し、国庫負担も巨額なものとなる。国民年金は、産業構造の変化に伴う就業構造の近代化と高度化により新たな加入者の増加は望めず、制度存立の基盤が不安定となることは避けられない。ほかの年金保険においても制度の安定的運営が困難なものもある。そこで、公的年金保険を長期にわたり健全かつ安定的に運営していくために制度体系の大幅な再編成を行うことにし、1986年から実施した。その内容は、国民年金を全国民共通の基礎年金を支給する制度とし、財源は厚生年金保険加入者を中核に加入者全体で公平に負担していく。基礎年金の導入により女性の年金保障の確立(ただし基礎年金だけ)、世帯類型に応じた給付水準の適正化を図る。さらに、将来の制度の成熟化を考慮に入れて、給付水準の適正化を行い保険料負担の軽減を図り、最終的に国庫負担を削減する、といったものである。
第三段階は児童手当である。1985年に制度改正を行い、支給対象児童をこれまでの「第3子以降中学校卒業まで」を「第2子以降義務教育就学前」に、86年度から88年度にかけて段階的に移行していくこととした。
第四段階は生活保護である。その第一は、生活保護基準の算定方式を一般勤労者の所得水準に近づける「格差縮小方式」から、一般国民の消費水準の向上にあわせて定める格差維持の「水準均衡方式」に1984年度から改めたことである。その第二は生活保護費の国庫負担の一部地方公共団体への転嫁である。国8割、地方2割の負担を、85年度から国7割、地方3割とした。
第五段階は社会福祉である。1980年代以降、社会福祉は、施設収容から在宅福祉へ、社会福祉サービスの原則無料から有料へ、公的サービスの民間サービスによる部分的肩代りへといった動きをみせている。
1980年代前半の「財政危機」と高齢化社会に対応する社会保障の制度改革に共通して認められたのは、国庫負担の軽減化と、これと引き換えの国民負担の増大である。この結果、社会保障から国家が後退し、社会保障の私的保障化が進められることになった。その後、1989年(平成1)策定の「高齢者保健福祉推進十か年戦略」(ゴールドプラン)で、三位一体の老齢者の生活保障を主眼とした社会保障が展開されるようになったのである。94年には、高齢者介護対策の充実を図るためゴールドプランを見直した「新ゴールドプラン」、さらに子育てを社会的に支援していくための「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について」(エンゼルプラン)が策定された。
高齢者介護問題
1990年代なかばになると、高齢者介護問題が老後の不安要素となった。要因の一つは、急速な高齢化の進展に伴う寝たきり、認知症の老人の増加である。二つめは、核家族化、女性の職場進出の長期化による家族の介護機能の低下である。高齢者介護は、これまで老人福祉と老人保健で行われていた。利用手続、利用者負担の不均衡、それに老人保健にみられた「社会的入院」の経費増大が問題とされた。そこで、両制度を再編成し、介護サービスを総合的に利用できるようにし、老人保健の財政負担の軽減を図ることとした。1997年12月、オランダ、ドイツに続いて世界3番目の介護を目的とした単独立法である介護保険法を制定し、2000年4月から施行した。また1999年12月には「新ゴールドプラン」後の施策として、介護サービス基盤の整備、認知症高齢者支援対策の推進などを目ざす「ゴールドプラン21」を策定、2000年度には介護保険を円滑に実施するための「介護予防・生活支援事業」が創設された。
現況・課題
1990年代以降の社会保障は、91年2月のバブル経済の破綻(はたん)、12月のソ連崩壊で新しい歩みを始めた。失業の再登場と社会保障発展の政治的促進要件の喪失とが、ともに出現したのである。失業問題は、労働者の生存条件を否定し、国民生活の安定を欠かせた。また社会保障の大前提をなきものにした。ソ連の崩壊は、結果の平等を求める力を失わせた。社会保障は、1980年代前半からなかばにかけての「制度改革」以降の縮小再生産の傾向をますます強めている。
完全失業率は、安全水準と考えられていた3%を、1994年橋本内閣のときに超え、98年の小渕(おぶち)内閣時には4%を、2001年の小泉内閣時には5%を上回った。この結果、被用者社会保険適用者数は、1997年度をピークに以後微減傾向にある。完全失業率の上昇は、当然のこととして賃金水準の低下を生み出す。被用者社会保険平均標準報酬月額はやはりこの影響を受け、97年度をピークに以後逓減傾向を示している。これらの要件が重なり合って、被用者社会保険保険料は、99年度から減少している。高齢化、失業などによる社会保障給付費の増大に反する保険料収入の逓減傾向は、社会保障財政悪化の大きな要因となっている。
社会保障給付費は、1970年度3兆5239億円、80年度24兆7336億円、90年度47兆2203億円、2000年度78兆1272億円と年々増加している。また対国民所得比も、70年度5.77、80年度12.41、90年度13.45、2000年度20.53と増加している。社会保障給付費の部門別推移は、70年度医療部門58.9%、年金部門24.3%、社会福祉その他16.8%だったが、高齢化、年金保険の成熟などにより、81年度年金部門が43.7%を占め、これまで首位の座を占め続けていた医療部門41.8%を初めて超えた。以後「年金」と「医療」の構成割合の格差は広がり続け、90年度年金50.9%、医療38.9%、福祉その他10.2%、2000年度は年金52.7%、医療33.3%、福祉その他14%の構成比となっている。また高齢者関係給付費は73年度1兆5641億円(社会保障給付費に占める割合25%)、80年度10兆7514億円(同43.4%)、90年度27兆 9262億円(同59.1%)、2000年度53兆1982億円(同68.1%)と著しく増加している。
現代日本の社会保障は、ライフ・サイクルごとの社会保障の必要度と高齢化を反映して高齢者世帯の生活保障策となっている。年金・恩給はもちろん、医療も高齢者が最大の受給者である。一般世帯で子供である生産年齢人口が費用を負担し、老親である高齢者世帯の生活を保障している。高齢者世帯は直接的受給者、一般世帯は間接的受給者となり、社会保障は2世代にわたる生活保障策となっている。
中央一般会計歳出決算(目的別)に占める社会保障関係費は、若干の年度を除くと、1975年度以降、地方財政費、国土保全および開発費をおさえトップである(恩給費を加えると、やはり若干の年度を除くが、20年も早い1955年度以降第1位である)。このことは社会保障を不可欠とする現代資本主義国家=福祉国家の様相を日本も示していることを意味している。
現在の日本の社会保障は、2020年代に迎える人口高齢化のピークに対処する制度づくりを模索している。それは、一方において経済成長の停滞と人口の高齢化のいっそうの進行による社会保障財政の逼迫(ひっぱく)の恐れと、他方における社会保障に対する国民の期待の増大のなかにあっての社会保障のあり方の検討である。年金保険においては、厚生年金の支給開始年齢が60歳から65歳に引き上げられることになった。高齢者介護については、前述したように1997年に介護保険法が成立した。医療保障では、制度間の負担と給付の一元化の問題がある。つぎに問題とされるのは、医療保障と社会福祉(具体的には老人福祉)との総合化とネット・ワークづくりである。医療・福祉サービスの連携は、介護サービス・ネットワークとよばれ、介護サービス、医療・保健・看護サービスの総合システム化をさらに進めた横断的有機的な連携組織のことである。
具体的な社会保障の課題としては、高齢化のピーク期においても安定した年金保険の構築、地域のニーズに即応した効率的な保健医療福祉システムの確立、寝たきり老人などに対する介護対策の充実、次代を担う児童の健全育成などがあげられる。
[横山和彦]
社会保障・福祉年表(日本)
年代 内容
1870 種痘の普及法を府藩県に達す
1871 京都府、窮民授産所を設立
1872 フランス人ラクロット女史が横浜に和仏学校設立、育児事業を開始(育児院の初め)
1874 東京市、日本橋に司薬場設置(国立医薬品食品衛生研究所の前身)
1875 盲人の保護、教導のための楽善会を組織。「海軍退隠令」によって恩給制度が発足
1876 金禄公債証書発行条例制定(華族に支給)。陸軍恩給令制定
1878 フランス人が函館元町に孤児院開設(のち白百合学園となる)
1879 高松凌雲らが貧民救療のための同愛社を開く(同愛病院の起こり)
1880 楽善会経営の東京訓盲院(後の官立東京盲唖学校、現在の筑波大学附属盲学校・同聾学校)業務開始(視覚障害教育、聴覚障害教育)
1881 貧民救療費支弁法を制定(地方財政への負担の転嫁)
1883 海軍退隠令廃止、海軍恩給令制定
1884 官吏恩給令制定
1885 種痘規則制定(天然痘予防規則等廃止)
1886 国際赤十字条約(ジュネーブ条約)加入
1887 博愛社を日本赤十字社と改称
1888 フランスの制度にならった大日本監獄協会設立(のちの矯正協会)
1897 伝染病予防法公布(8種の伝染病の指定、各地の衛生組合を法制化)
1899 罹災救助基金法公布
1922 健康保険法制定(社会保険)
1923 恩給法制定(陸軍恩給令、海軍恩給令、官吏恩給令を統合)
1929 救護法(救貧法)制定
1938 国民健康保険法(旧)制定
1939 職員健康保険法、船員保険法制定
1941 労働者年金保険法制定
1943 年金保険厚生団(現厚生年金事業振興団)設立
1944 厚生年金保険法(旧)制定
1946 生活保護法(旧)制定(公的扶助)
1947 労働者災害補償保険法、失業保険法、児童福祉法制定
1948 社会保障制度審議会設置法制定
1949 身体障害者福祉法制定
1950 生活保護法制定
1953 日雇労働者健康保険法、私立学校教職員共済組合法制定
1954 厚生年金保険法制定
1956 公共企業団体職員等共済組合法制定
1958 農林漁業団体職員共済組合法、国家公務員共済組合法、国民健康保険法制定
1959 国民年金法制定
1960 精神薄弱者福祉法(1998年知的障害者福祉法に名称変更)制定
1961 通算年金通則法、児童扶養手当法制定
1962 地方公務員等共済組合法制定。社会保険庁設置。適格退職年金制度導入(企業年金)
1963 老人福祉法制定
1964 母子及び寡婦福祉法制定(母子福祉)
1966 厚生年金基金制度導入
1967 地方公務員災害補償法制定
1970 農業者年金基金法制定
1971 児童手当法制定
1973 年金法大改正。70歳以上の老人医療費無料化
1974 失業保険法廃止、雇用保険法制定
1977 社会保障の最低基準に関する条約(国際労働機関(ILO)102号条約)批准、効力発生
1978 ショートステイ(老人短期入所生活介護)事業創設
1979 デイ・サービス(日帰り介護)事業創設
1982 老人保健法公布(70歳以上の医療無料制廃止)
1984 健康保険法改正。退職者医療制度創設
1985 国民年金法改正。年金一元化・基礎年金導入。船員保険を厚生年金保険に統合。社会福祉・医療事業団(現福祉医療機構)設立
1986 年金福祉事業団法及び国民年金法等改正。年金積立金の事業団による運用開始。老人福祉法改正(ショートステイ、デイ・サービスの法定化。老人保健施設の創設)
1987 労働基準法改正(法定労働時間の短縮、労働時間規制の弾力化等)。社会福祉士・介護福祉士法制定
1988 児童扶養手当法等改正
1989 雇用保険法及び労働保険料の徴収等に関する法律改正。ゴールドプラン(高齢者保健福祉推進十か年戦略)策定。在宅介護支援センター、介護利用型軽費老人ホーム(ケアハウス)創設
1990 老人福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法(1998年知的障害者福祉法に名称変更)、児童福祉法、母子及び寡婦福祉法、社会福祉事業法(2000年社会福祉法に名称変更)、老人保健法、社会福祉・医療事業団法の八つの社会福祉関係法令(福祉八法)改正
1991 老人訪問看護制度創設
1993 雇用審議会(大内力会長)、60歳定年の義務づけ、65歳までの継続雇用を促進するなどの答申をまとめる
1994 国民年金法等改正法成立。老齢厚生年金の定額部分の支給開始年齢の65歳への引上げ、保険料率の段階的な引上げ、標準報酬月額の上・下限の改定、ボーナス保険料制の導入など。新ゴールドプラン(新高齢者保健福祉推進十か年戦略)、エンゼルプラン(今後の子育て支援のための施策の基本的方向について)策定
1995 精神保健福祉法(精神障害者に対する福祉施設の充実を図る)改正。高齢社会対策基本法制定。介護休業制度法制化
1997 児童の個性・親の就労状況に合わせ保育所を選べるように児童福祉法を改正。介護保険法制定。基礎年金番号制度導入。痴呆性老人グループホーム(現認知症高齢者グループホーム)創設。日本鉄道共済組合(JR共済)、日本たばこ産業共済組合(JT共済)、日本電信電話共済組合(NTT共済)の3共済組合が厚生年金保険に統合
1999 ゴールドプラン21(今後5か年間の高齢者保健福祉施策)、新エンゼルプラン(重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画について)策定。介護休業義務化
2000 介護保険法施行。国民年金法等改正法成立。厚生年金の報酬比例部分の給付水準の適正化、老齢厚生年金の報酬比例部分の支給開始年齢の65歳への引上げ、国民年金保険料の半額免除制度の創設
2001 年金資金運用基金設立に伴い年金福祉事業団解散。確定拠出年金法、確定給付企業年金法制定(企業年金)。ハンセン病療養所入所者等に対する補償金支給法制定
2002 農林漁業団体職員共済組合が厚生年金保険に統合。ホームレス自立支援法成立
2003 社会福祉・医療事業団が独立行政法人福祉医療機構となる
2004 厚生労働省、「痴呆」にかわることばとして行政用語では「認知症」を使用、一般的な用語でも変更を求める通知を行う
2005 発達障害者支援法施行。特別障害給付金制度の創設
2006 障害者自立支援法施行、高齢者虐待防止法が施行。介護保険法を改正
2007 社会保険庁の年金記録問題、同庁および自治体の年金横領問題が表面化
社会保障・福祉年表(世界)
年代 内容
1883 疾病保険法成立(ドイツ)(医療保険、社会保険)
1884 労災保険法成立(ドイツ)
1889 老齢・廃疾保険法成立(ドイツ)
1897 労働者保護法成立(イギリス)
1898 労働災害補償法成立(フランス)。無拠出老齢年金法成立(イタリア)
1908 無拠出老齢年金法成立(イギリス)
1911 帝国保険法成立(ドイツ)。国民保険法成立(国民健康保険・失業保険)(イギリス)
1913 公的年金保険法成立(スウェーデン)
1920 失業保険法成立(イギリス)
1925 寡婦・孤児・老齢拠出年金法成立(イギリス)
1927 失業保険法成立(ドイツ)
1930 社会保障法成立(フランス)
1932 家族手当法成立(フランス)
1934 失業法成立(イギリス)
1935 社会保険法成立(アメリカ)(公的扶助)
1938 社会保障法成立(ニュージーランド)
1939 家族法典制定(フランス)。老齢遺族保険成立(アメリカ)
1942 ビバリッジ報告(イギリス)
1944 国民保険・国民保健サービス。国民扶助に関する白書(イギリス)
1945 家族手当法成立(イギリス)。社会保障の組織に関する10月4日の大統領令(フランス)
1946 国民保険(労働災害)法、国民保険法、国民保健サービス法成立(イギリス)。国民年金法成立(スウェーデン)
1947 国民健康保険法成立(スウェーデン)
1948 国民扶助法、児童法成立(イギリス)
1951 労働保険条例制定(中国)
1956 老齢・遺族・障害保険導入(アメリカ)
1957 第一次年金改革(西ドイツ)。公立病院の料金制廃止(ニュージーランド)
1959 改正国民保険法成立(イギリス)。国民付加年金法成立(スウェーデン)
1962 国民保険法成立(スウェーデン)
1964 社会保障法成立(ニュージーランド)
1965 老齢・遺族・障害・健康保険導入(アメリカ)
1966 国民扶助を補足給付に改称(イギリス)
1967 社会保障改革令議会提出(フランス)
1970 世帯所得補足法成立(イギリス)。いわゆる「7クローネ改革」により医療費の一部負担開始(スウェーデン)
1972 第二次年金改革(西ドイツ)。補足的保障所得(アメリカ)。社会福祉省設置、傷害補償法成立(ニュージーランド)
1973 国民保健サービス再編成法成立(イギリス)
1974 被用者退職所得保障法成立(アメリカ)
1975 社会保障年金法、児童給付法成立(イギリス)
1976 部分年金制度の発足(スウェーデン)
1977 疾病保険費用抑制法成立(西ドイツ)。国民年金導入(ニュージーランド)
1978 社会保障の一般化に関する法律成立(フランス)
1980 社会保障法成立(イギリス)
1982 ウィーンで「第1回高齢者問題世界会議」開催
1985 地域・在宅ケア法成立(オーストラリア)
1988 社会参入最低所得制度制定(フランス)。家族援助法制定(アメリカ)
1990 国民保健サービス・コミュニティ・ケア法成立(イギリス)
1992 退職年金保障税制度導入(オーストラリア)
1994 公的介護保険法成立(ドイツ)。老齢連帯基金創設(フランス)
1996 日本の首相橋本龍太郎(当時)がリヨンでの主要国首脳会議で世界福祉構想を提唱(世界各国の社会福祉政策の知識と知恵の共有化)。個人責任・就労機会調整法制定(アメリカ)。失業給付にかえて求職者手当金給付開始(イギリス)。老年人権益保障法制定(中国)
1997 高齢者ケア法制定(オーストラリア)
1998 敬老年金制度導入(韓国)
2000 普遍的医療保険制度施行(フランス)。新遺族年金法成立(スウェーデン)。国民基礎生活保障法施行(韓国)
2002 スペインで「第2回高齢者問題世界会議」開催
関連項目
1. 医療保険
2. 医療保障
3. 介護保険法
4. 家族手当
5. 救貧法
6. 健康保険
7. 厚生年金保険
8. 公的扶助
9. 高齢化社会
10. 国民年金
11. 失業保険
12. 児童手当
13. 社会政策
14. 社会福祉
15. 社会保険
16. 生活保護
17. 退職者医療制度
18. 年金保険制度
19. ロイド・ジョージ
20. 老人福祉
21. 老人保健法
22. 老人問題
23. 労働者災害補償保険
24. ロウントリイ
Adam Smith Colletion
|
への追加(1),(2),(3) ,(4) ,(5),(6),(7) ,(8),(9)
(1).Mill, John Stuart(1806-1873) 『経済学原理』 第3版,第5版
Principles of political economy : With some of their applications to social philosophy / By John Stuart Mill
3rd ed; 2vols, 22cm (私家用に再製本されている)
London : John W. Parker and son , 1852
Vol.1 : [i]-xx, (1)-604
Vol.2 : [i]-XV, (1)-571,(572)
Principles of political economy : with some of their applications to social philosophy /
by John Stuart Mill
5th ed; 2vols, 23cm (オリジナルのクロス製本)
Vol.1 :[i]-xvi,(1)-607,(608)
Vol.2:[I]-XV, (1)-591,(592),(1)-8
古典は同時代に対してだけでなく、現代にも直接語りかけてくる。ミルの『原理』がその一つである。この本について若干説明をしておきたい。 スミスが『国富論』を出版して以来、経済学はリカードやマルサス等によって、理論的な分析用具を開発して純化する点では、長足の進歩を遂げた。 そのため、スミスでは古くなる。そこで、純粋経済学の成果を取り入れた新しい経済学の教科書が求められていく。 この動きに対抗して、 ミルが経済学の本を書いていった。彼は認める。先端的な経済理論は現実の問題に対して、それが経済だけの問題であるようにみえても、 十分に答えることはできなくなっている、と。なぜならば、当時の実際問題は新たに起こってきた社会主義思想や労働間題、環境や文明 に関する問題などと絡んでいたからである。こういう状況に対して、理論を自己増殖させるだけでは役に立たないと、彼は判断した。 ミルは「スミスに還れ」と言う。 このスミスの『国富論』であるが、それは当時の経済学界の議論の中からのみ生まれてきたのではない。それは今日でいう社会・ 人文科学の中から生まれたものであり、当時の一般読者や政治家には広く読まれたのである。ミルはその理由を考え、それは専門用語 や理論が抽象的にそれ自体としてでなく、広大な視野の中で提示されているからだと、了解した。そこでミルも、スミス以降に進歩し てきた精緻な理論的成果を取り入れつつ、それと現代に得られた社会思想の成果とを結合させようと考える。そのために、『原理』の 副題は「原理の社会哲学への適用」となっているのである。 経済学は今日に至るまでずっと、富を研究してきている。ミルもそうであって、彼は富を資本主義的大工業と世界市場の中で、どう すればうまく捉えることができるかと考えた。彼はスミスに倣って、富をヨーロッパ文明史と国際関係の広い視野の中で検討していく のである。つまり、彼はヨ-ロッパが狩猟・漁労の「未開」社会から商工業の「文明」社会に向けて経済発展してきている様子を 、公私分業の成立や生活様式の変化、自由時間の獲得という人間的発展の観点で考察している。そしてそのヨ-ロッパ史をいわば 「横倒し」にしてみると、世界の一方では、インディアン的狩猟社会やアラブ的牧畜社会・アジア的農耕社会があるかとおもえば、 他方ではヨ-ロッパ諸列強のように資本主義的に発展したところがある。そして、ヨ-ロッパ・非ヨ-ロッパの間で南北問題的な 様相を示している。また、同じヨーロッパの中でも、国によって豊かさの程度と経済成長の速度に違いがあって、覇権争いをしている。 このように世界の諸国民の間で富裕の程度に違いがあるのはなぜか。ミルはその法則の解明を、一国の内部的な自然条件や技術水準だけ でなく、人間性や倫理・制度・社会関係を組み込んで考えていく。 以上の方法を指して、ミルは経済学は「道徳科学」でなければならないとした。スミスがミルによって新たな環境のなかで見事に再生されている。 さて、『原理』は長大であってそれを読み通すのは大変である。なにか良いとっかかりがないだろうか。 ミルの魅力の一つは、その構想力が際立っていることにある。その、一例--スミスの時には、水や空気はそれがどんなに人間にとって欠くこと のできないものであるとしても、無限にあるから、それらに交換価値はないとされていた。しかし、ミルの時になると、水は水道施設によって供給 されるから、それは交換価値をもつと見られるようになった。この事態の変化を空気にあてはめて、水中で人間の活動がなされるようになる場合に 応用してみれば、空気の供給に時間と労働がかけられるようになり、空気にも価格がつくようになると言うことができるだろう。さらに想像を進め て、「自然界の革命」のために空気がもはや自然の賜物ではなくなり、誰かに独占されるようになれば、それは高い価格をもつようになるだろう--。 この推論が指し示すことは、地球環境危機や宇宙時代の今日のわれわれには経験済みの現実のものである。そして次のように言うこともできるのである。 このような独占でもって利益を得ることは、重商主義的な意味で富を得るとしても、古典派的なミルからすれば、国民や人類を貧しくすることである。 この種の「貧しさ」からの解放は、まさに現在の問題であると言える。ミルの構想力はそこまでわれわれの思考を導いてくれる。 また、ミルは経済学的分析をするなかで、分析だけに止めず、当時の新しい社会的な動きであったフェミニズムや従業員利潤参加制の新しい企業組織、 「生活クラブ」的なものに注目していると言ったら、人はどう思うであろうか。それらの新しい動きにミルは社会的公正や望ましきものを見るのであるが、 今日の専門研究者の中には、それは科学の中に倫理や価値を持ち込むものだと反発する者がいるであろうか。 いずれにしても、私はここに紹介する『原理』第3版を開かれることをお勧めしたい。第3版では、アイルランドの小作問題、国際的価値、社会主義思想 の検討、資本蓄積と労働者階級の将来を検討する箇所で、大幅な改定がなされる。第5版では、事実的な訂正や補足的な説明が各所でなされている。
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(2).John Maynard Keynes(1883-1946)『雇用、利子および貨幣の一般理論』
The Genenral Theory of Employment Interest and Money./ J.M.Keynes
Macmillan and Co., London, 1936
(i).xii. 384,19
ケインズ経済学はわが国では1950年代から60年代にかけてマルクス経済学と拮抗する一方の雄であったが、70年代に顕著となったスタグフレーション の状況以降においてその終焉と政策の非有効性が言われるようになった。それが、80年代から90年代にかけての金融グロ-バリズムと規制緩和のもと でバブルの崩壊を経験し、企業経営のリストラに苦しんでいる現在、再びケインズが見直されるような機運となっている。他の経済学の古典と同じく、 今ケインズが生きていたら、どうこの不況に答えるであろうかと、想像力がかきたてられる。 ケインズは株式市場と国際経済に対して次のような考えをもっていた。 株式は株式取引所で評価されるが、それは当該企業の収益を予測してなされる よりも、市場の群衆心理にもとずいてなされている。これでは経済はカジノ化してしまい、一国の公共利益に反することにもなる。また、国際経済にお いては、ある国が貿易黒字を追求することによって他国を犠牲にしてしまっては、無秩序になってしまう。それを防ぐためには、すべての国が自国の事 情を考えた利子率のもとで完全雇用を維持する経済政策を共に採用すべきである・・・。 こういうケインズを知ると、われわれはケインス政策の直接の有効性云々の議論を越えて、現代資本主義を認識するのに、なおどころか、大いに示唆 を与えられる。 『一般理論』は普通、第1次大戦後の不況による失業問題を解決するために、その基礎となる理論を構築したと位置づけられている。 ケインズは最初はA.マーシャルの経済理論の忠実な継承者をもって任じていたのであるが、どうしても師の理論に反逆せざるを得ないような現実に ぶつかり、師と自らの双方を乗り越えていく。本書は1933年にその直接の執筆を始め、1936年1月に刊行された。その間、それは何回か草稿の書き直し を経て、また印刷中にあっても何回かの校正のさいに、校正刷りを友人や研究者に回して論戦をしながら、改善を繰り返して、ようやく出版されている。 以下、本書が現代の資本主義を捉えていくうえで重要な視点となるものを幾つかあげてみよう。 ケインズまでの正統的経済学は、経済社会は自分の 利己的な満足を極大化することを目的として行動する合理的な経済人によって構成されていると考えていた。だが、現実はそうでないことに、ケインズ は注目する。例えば、労働者をとってみれば、労働者は自分の労働力を商品として販売し、その労働力の価格である賃金でもって生活を維持している。 その点では労働力は一般の商品と同じであるとしても、それは他の普通の商品とは異なる特殊の質をもった商品である。それは機械の価格と同じように 需要の変動に伸縮的に応じてやがて均衡していくような商品ではない。こういう認識を現在のリストラのもとで活路を探すはめになっている日本の サラリーマン--50代になって失職するなんて今まで会社に捧げてきたこの人生はなんであったのかと戸惑う、将来の転職を考えて今から新たな技能 の修得の準備をする、家族と離れてまでも単身赴任することを厭わないように気持ちを整える、会社に捧げてきたこの人生とは何であったのか、等々の ‐‐はどう受けとめるであろうか。 次の視点として、企業家は事業に投資して労働者を雇用するが、それだけの雇用コストがかかってもよいとさせるものは何か。経営環境は将来どうなるか 不確実であり、生産の期間中でも価格は変動する。こういう不安定な状態のもとでは、将来にたいする企業家の期待こそが現在の投資行動を決定するもので はないのか。つまり企業家はG-W・・P・・W’-G’という貨幣資本循環の形での再生産を期待するのであって、それまでの古典派理論が説くように 、貨幣は単に商品交換を媒介する手段(W-G-W)というものではない。貨幣は生産にたいして中立的で何ら影響を与えないというものではない。 こういうケインズの認識では、古典派のケネーやスミスが再生産論で明らかにしたように、特定の使用価値の特定量の回収や社会的分業下での産業部門間の 補填関係の様子が出てこない点で不満はあるが、それでも貨幣には普通の商品とは異なる独特の性格があるのではないかという以下の指摘につながっていく うえで、それは重要である。 古典派は人々の所得はその全部が企業家の供給する消費財の購入に支出されると考えた。この理論は社会の消費財の価値はすべて実現されると想定している のだが、それは現実的なものであろうか。ケインズはそんな価値実現の保証はないと考える。所得の一部は流通に出ることなく、保蔵されるからである。 貨幣には普通の商品にはない特殊な働きがあって、それは資産(ストック)となって価値を保有することができるのである。だから社会の中で貨幣量が増えても、 それだけでもってそれが消費財にたいする有効需要となることはない。それゆえ、古典派の大前提であった「供給が自らの需要を創造する」という命題は成立しないことになる。 以上、ケインズの思考のほんの一例をあげておいたが、彼の 『一般理論』 は今日の日本資本主義と世界経済を現実的に捉えていくうえで貴重な方法と 考え方をわれわれに与えてくれる。その点で本書は現代の古典である。
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(3).Smith, Adam (1723-1790) 『国富論』 フランス語版(G.ギャルニエ訳)
Recherches sur la nature et les causes de la richesse des nations; par Adam Smith.
Second edition, avec des notes et observations nouvelles; par le marquis Garnier. A
Paris, chez Mme veuve Agasse. 1822
Tome 1,(vi)+xxiv+ clvi+ 368. Tome 2,(iv)+493. Tome 3,(iv)+564.
Tome 4,(iv)+556. Tome 5,(iv)+670. Tome 6,(iv)+572.
訳本の価値はどこにあるのか。というのは,翻訳は反訳であって原本に対する裏切 りであるという言葉があるくらいだからである。だが翻訳は誤解を含めて,理論や思 想・政策の国際的伝播を考える上で,一つの意味のある研究対象となりうる。 『国富論』は経済学の古典の中でも最も広く訳されている本であろう。それはこれまでに18 ケ国語に訳されてきており,今日に至るもなお新訳が試みられつつある。最も早い訳は『国富 論』刊行年と同じ1776年に出版されたドイツ語訳であり,日本語訳は遅れて明治の1870年に出 された部分訳が最初である。わが国は翻訳することに世界一熱心であり,抄訳を含めると既に 14種も出ていて,今日なお新訳が出されつつあるという状況である。 さてフランス語版のことであるが,『国富論』が刊行された翌年の1777年2月,Le Journal des s avantsに書評が出て,そこには『国富論』は政治家に役立つ本であって, フランス語に訳すことはできても,その出版の費用には耐えられないだろうと書かれ ていた。しかしその後,出版の試みは続く。最初に1778年,オランダのハーグでMという 匿名氏による訳が出され,次に1779年から80年にかけてブラヴェ師による訳が雑誌に 出る。1781年にはそれがまとめられてスイスのイブルドンで刊行される。スミスはブラ ヴェに対しては,翻訳に満足していると礼状を出しているが,モルレがこの訳ではスミ ス理論の抽象的なところ(「スコットランド的精妙さ」)が理解されないと批評していた ように,ブラヴェ訳は悪訳だとみなされている。訳者自身も認めているように,それは まったく自分用に訳したものであったから,正確さには欠けていた。その後,1790年に J. A.ルーシェによって余り価値のない訳が出されたのを間に挟んで,第4の定評ある 訳がギャルニエによって1802年に刊行される。 このギャルニエ訳の初版はパリで5巻本として出され,そこにはスミスの肖像と訳 者による序文および注解が付されていた。第2版は1822年に6巻本で出され,新しい 注解が付け加えられた。そして1843年にはA.ブランキによって改訂版が出され,『国富 論』に対してなされたブキャナン,マカロック,マルサス,リカード,J.ミル,シスモ ンディ,ベンタムの評言が付け加えられる。本コレクションに収めたのは前記の第2 版である。 このギャルニエ版の特色は,経済学を国民的類型の観点から見ると,二つある。一つ は『国富論』の体系構成に対して批判的であること。もう一つは英仏の経済学を比較し て,フランス経済学の優秀性を押し出していること。 『国富論』の構成に問題があることは早くから指摘されていた。スミスでは貨幣につ いての議論が各編にわたって分散されている,等。ギャルニエはスミスの理論構成が 真の意味で統一的でなく,科学に必要な演繹的方法が無視されていると見る。彼から すれば,経済学の本論は価値論から始められるべきであって,その前に述べられている 分業論は序論にすぎないと映る。また『国富論』には銀価値の変動論を始めとする「余 論」が幾つかある。それも非常に長くて本論を超えるものもある。ギャルニエはそれら は本論と無縁であると考え,こういう脱線がスミスに対する理解を妨げているから,そ れらは巻末にまとめて付録とすべきであると批判する。そう批判して,彼は自ら自然 と思われる論理的順序に『国富論』を編成し直し,その成果を読者に提供する。このよ うに再構成された理論的概括の試みは,彼以外にもコンドルセ侯爵やJ. B.セー等に よって試みられ,その努力によってフランスでは『国富論』は受け入れられていく。 またギャルニエはスミスをフィジオクラートと比較し,後者の議論の方を正しいと 判断した。そこにはお国自慢にのみ帰すことのできないものがあり,経済学の対象に ついて反省すべきことがある。それはフィジオクラートが人間の経済に対する自然の 作用を認めていたことである。但し,フィジオクラートはそのことを農業部門にのみ 認めていた。その自然の作用の範囲を工業部門を含む産業にまで広げ,人間は物その ものを創造することはできず,ただその形態を変換するのみであって,もしも創造する とすれば,それは効用であると考えたのが,セーであった。 以上,こんな一訳本からでも,我々は経済学の対象と方法について問題を構成するこ とができるのである。経済学の祖国はイギリスであるとしても,このようにその発展 にフランス的特質が役立つことがあったように,西ヨーロッパとは異文明のわが日本 が独自の貢献をすることができるのではないか。例えば,経済学の初発概念である交 換価値はフランスのスミス受容者におけるように体系上の理論的定義のみで済まして よいものでなく,価値論の前提として置かれた分業論や交換本能論の歴史的社会学的 意義と関連づけることなくして翻訳はできないのではないか。また,スミスが重商主 義のように貨幣論をまとめて考察しなかったことには彼なりの内在的理由はなかった のか。彼が余論を置いたのも,それを本論の展開にとってどうしても必要なものとし て置くことはなかったのか。こういう問題設定は同時にそれらの問題に解答を試みて きたわが先学達の営みを再評価することにもつながるだろう。
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(4). Mill, John Stuart(1806-1873) 『論理学体系』 第3版
A System of Logic / John Stuart Mill
2 vols.,
3rd ed., London, J.W.Parker, 1851
J.S.ミル(1806-73年)は19世紀イギリスの経済学者であり社会改革家である。 その彼は本格的な政治経済の著作活動を開始する前にかなりの時間をかけてここに紹介する 『論理学体系』(1843年,初版)を書いているのであるが、このことはあまり知られておらず、 その意味も省みられることが少ない。彼の生涯を特徴づけているものの一つは父ミルから猛烈な 英才教育を受けたことであろう。彼は3才でギリシャ語の古典を、8才でラテン語の古典を学び、 同じ年頃の子供との遊びを知らないままに、なんと13才で当時出たばかりのリカード『経済学原理』 (1817年)学習させられたのである。その後24才頃に彼は論理学に関心を抱き、推理はどうした ら正しくなされるか、認識上の誤謬はどこに発生するかということを探究するようになる。これは一見 すると抽象的な議論でしかないように見えるが、その背景には実践上の問題に関わってどうしても鍛え ておかねばならなかった方法上の問題があったのである。それは彼の『自伝』を参考にしてみれば次の ようなことであった。 『論理学体系』の中では帰納法についての議論が展開されている。帰納法は17世紀のベーコンに起 源をもち、イギリスに特徴的となった思考方法であるがと見られることがあるが、実際にはその方法を 採用する者はミルの時代に入っても少数であった。時代は環境的にも良くなく、ナポレオン戦争が終結 して1815年には神聖同盟が結ばれ、思想的には反動期であった。この時の論理学の主流はドイツ的 な先験的直観派にあったらしい。直観派は真理を絶対的で必然的なものとみなし、それは人間の心中に ある直観によって認識できると考えていた。保守派は既成の制度を擁護するためにこの直観的認識 (→宗教的真理)を認識の底辺におき、その偏見を心中の信念や強い内面感情で支えていたのである。 彼らは男女間や民族間の性格の違いは生得のものであって環境によって作られたものでないから変えよ うがないと考え、社会改革の動きを妨げていた。それに対してミルは既成事実の絶対性は外見的であり、 真実は人間の精神の外にあるものであって、人間はそれを観察と経験によって知ることができると考える。 彼は社会改革を推進するのであるが、この経験的認識を使って他人にその社会改革の正当性を説得すること ができるとするのである。 この本は生前に8版を重ねるほどによく読まれた。本コレクションに収めるのはその第3版である。これ の初版が出た後で『経済学原理』(1846年)が刊行される。 我々の社会科学研究のありかたを振り返ってみると、予めこのようにして知識獲得の方法を体系的に学ぶ ことは少ないと思われる。また我々が自分の中にある意識下の「日本の思想」(丸山眞男)を対象化してそ れと対話することもあまりない。かつて中谷宇吉郎は『続冬の華』(1940年)の中で人は学問的議論を する時でも「金中猶蟲あり、雪中蟲無んや」の類の「語呂の論理」に陥ることがあると指摘していた。ゴロ のロンリとは天保期の鈴木牧之が『北越雪譜』の中で示していたものであって、金属が錆びるのは金属の中 に眼に見えないほどの小さな虫が発生して腐るからであり、この金属に虫が発生するくらいだから雪の中に も発生しうるだろうという論理である。中谷はこの種の偽論理が自分の周りでも知の名において行なわれて いることを警戒する。その一例として彼はマイナス・イオンの効用をめぐる研究者間の議論を取りあげてい る。それによれば、マイナス・イオンの神経沈静作用は当時既に実験的にも確認されており、論者はそのこ とを聴者に納得させるために不用意にも(無意識に)プラス・イオンはマイナスの反対だから興奮的に作用 するはずだと主張してしまったらしい。プラス・イオンの作用については実験結果で確かめられることをた だ述べればよかったのに、そこには実証を伴わない論理の飛躍があったのである。この種の「語呂の論理」 は実は空気のように我々研究者をも取り囲んでいる。 |
(5). 『アダム・スミス典拠集』
Adam Smith references : an inquiry into the nature and causes of the wealth of nations. [microfiche]
5 vols.; 30cm + 2 guide books
New York ; Tokyo : Pergamon Press , [19--?]
segment 1 ; 2 vols. + 1 guide book
segment 2 ; 3 vols. + 1 guide book
―引用について― (InfoPort no.8) スミスの『国富論』は経済学のみならず社会科学の有数の古典である。 そのため経済学史の研究者はその理論的・思想的源泉に関心を抱いてきた。 ところがスミスはその本で参考文献をほとんど示していない。 そこでE.キャナンという人がその欠を埋めるために自分の編集した『国富論』(1904年)において引用書の推定をおこなった。 これが20世紀の代表的な版となって多くの人に読まれていく。 そのキャナンの推定に基づいて(――それに独自の推定になるチュルゴー『省察』を加えて)スミスによる引用文献をマイクロフィッシュの形で刊行したのが本典拠集である。 この典拠集を一瞥すれば,スミスはギリシャ・ローマの古典から同時代の重商主義や啓蒙思想の世界の中でまことに幅広く知的に活動していたことがわかる。 今日それらの文献は稀覯本となっていて,入手することは大変難しいから,このようにマイクロフィッシュで刊行されたことは研究者にとって大変に便利である。 そこには例えばこんなものが入れられている。 ホメロス『イリアッド』,プラトン『共和国』,マン『イングランドの財宝』,ペティ『政治算術』,スチュアート『経済学原理』,ケネー『経済表』,ミラ ボー『農業哲学』,モンテスキュー『法の精神』,『百科全書』の幾つかの項目や雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』のある号,グロティウス『戦争と平和の 法』,ホッブズ『リヴァイアサン』,ロック『市民政府』,ヒューム『政治論集』,等々。 他にも多くの珍しい本や旅行探検記の類,スミスの伝記等,80余点の文献が収められている。 もちろんほとんどが全頁で。 その全貌については付設のカタログを参照していただきたい。 綺羅星のごとく壮観な光景である。 スミスはこれらをすべて読んでいたのだ! それらは機械で閲覧できるだけでなく,紙に印刷もできるから,スミス研究者のみでなく,およそすべての人文・社会科学者にとってなんとも便利なものであ る。 ところでこの典拠集は次の問題を我々に提示している。 スミスはなぜ『国富論』で引用をほとんどしなかったのか。 (彼は引用文献の明示を30箇所ほどでしているが,それは量としてはかなり少ない。それにそれらの大部分は初版でなく第2版(1778年)で示されたものである。) 引用が少ないことは当時スミスに限らないことであったが,そこに彼に固有な内面的な理由はなかったであろうか。 そのことをちょっと考えてみる必要がある。 スミスは若い頃,『エディンバラ評論』に寄稿して,イギリス人は独創性や構想力に富んでいるが,フランスの知性からその優れた判断力・適正さ・秩序を学 ぶべきであると述べ,そのモデルとして『百科全書』とルソー『人間不平等起源論』をあげていた。 それらは自然科学と社会科学の双方において経験による諸事実を自然の順序で並べていく推測的歴史の方法に拠って書かれていた。 彼はその後この方法を自分に適用して著作活動をしていく。 また彼は処女作の『道徳感情論』において,次のように自分の方法を述べることがあった。 ――人は私が本書で展開する理論に過去の有名な学説のほとんどすべてが入り込んでいることを見るであろう。 (その点で彼の独創になるものは少ない。) けれどもそれらはある点で正しく,他の点で誤っている。 私はそれらの部分的な真理の背景にある一般的な真理を探り当てようとした――と。 この方法はその次の著作となった『国富論』にも当てはまる。 スミスが『国富論』の執筆過程で腐心したことは,手紙での苦労話や「序論」での構想の提示からも窺えるように,新たな事実や新奇な考えを提示することより も,収集した歴史上・比較文化上の事実や古典古代・重商主義・重農主義・啓蒙思想等の先人の考えをどう一般的な理論の中に鋳込んでいくかということであっ た。 どこから始めて(労働生産力の基礎である分業),どういう論理構成をもって(価値論・価格論・分配論・資本蓄積論・再生産論),どこで終わるか(自然的秩 序の体系によるイギリス植民帝国財政の批判),その自然の配列と順序を見つけること,これが彼の一番苦労したことであった。 ある本の独創性や作品性はこういうことにも現れている。 だからスミスは引用文献をいちいち示す必要を感じなかっと言える。 彼はどこの誰から何を摂取しどう批判したかを読者に示さなくても不誠実であるとは思わなかったのである。 もしも今日普通の研究者がよくやるように,自分の説と他人の説との区別をつけることに不必要なまでに神経を使うのでは,それは研究の途に就き始めた者にモ ラルを教える点で意味があるとしても,スミス的な独創性は無くなってしまう。 経済学史の研究論文における実証ということが,典拠を明示する類のことだけに矮小化されるのであれば,それは寂しい。 「すべての道はスミスに通じる」とかスミスは「偉大な剽窃家」であると言われるが,それは以上のように解すべきであろう。 ある人物の理論を歴史的に位置づけるためには,キャナンのように典拠を調査することは有用である。 現在のグラスゴー版スミス全集はその調査方針をもっと徹底させて編集している。 だが同時に,矛盾的な言い方をするが,その研究はストップしなければならない。 スミスに先人の跡を詮索することは以上の彼の方法を知った上でなされるべきであろうから。 こういうことを示唆してくれる点でも,このマイクロフィッシュの典拠集には使用価値がある。 ―版の異同研究について― (InfoPort no.9) |
(6). マルサス『人口論』
T.R.Malthus, An Essay on the Principle of Population, or, A View of its Past and Present
Effects on Human Happiness. Vol.1-2, 3 rd ed., London.
マルサス(1766-1834年。モールタスと読むのが正しいらしい)は『人口論』の著者で有名である。 彼が人口は幾可級数的に増え、食料は算術級数的に増えると主張したことは誰でも知っているであろう。 また経済学史の講義を受ける学生であれば、『人口論』がフランス革命の原理を展開した無政府主義者 W・ゴドウィンを批判して、土地所有と男性にとっての結婚制度を擁護した本であることを学ぶであろう。 この『人口論』は一つだけでなく、第6版まである。初版は大胆な表現と文学的にも魅力のある書き方を していたために成功した。だが、マルサス自身は満足せず、学術的な改訂を計る。 (そのように始めから学問的な体裁をとっていれば、売れなかったであろう。) 彼は最初、単なる人口増加は国民の繁栄を示すものでないと考え、人口増を食料増のテンポに抑えるべき ことを主張していた。そしてその過程で貧困と子供の死、結婚抑制による悪徳の発生が必然的に伴なうと 論じていた。経済学は何とも冷たい学問である。それが第2版で人間には性欲に対する道徳的抑制の力が あると改められる。そして先見的であった仮定や命題が歴史や諸国の実例によって固められていった。 こうしてマルサス自身が認めるように、第2版は初版と異なる「新しい著作」となって現れる。 そのため後に各版研究がJ.ボナーやかの河上肇、そして今日の羽鳥卓也等の研究者によってなされてきている。 マルサスに対する評価は両極端である。彼の墓碑銘には「その人物の尊さとその思想家としての誠実さは、 いかなる時代いかなる国を通じても第一流であった」と記されているらしい(高野岩三郎・大内兵衛訳 『人口の原理』の大内筆「解説」より)。その通りであって、彼の気質が穏和であったことは多くの者が 認めている。反対に、彼は貧乏を犯罪とみなし、貧者にその道徳的責任をとらせようとした点で、 恥ずべき学説を唱えた者と断じられることもある。 通例、経済学史の教科書では、リカードは投下労働価値論に拠って分配関係を内面的に分析し、 進歩的産業資本のイデオローグになったとされている。他方、マルサスは、表面的な需要・供給の視点から 資本主義を分析し、保守的な地主階級のイデオローグになったとマイナス的に評価されることがある。 結局リカードがその後の19世紀の経済学を支配することになる。 それでもマルサスには資本主義認識の点で見逃せない方法がある。それは彼の理論が抽象的普遍性よりも 帰納的で現実性の点で優れていることである。それは後のケインズによって「私には最も親しみやすく、 かつ・・・・・容易に正しい結論に導くと思われる方法」(『人物評論』)だと評価される。 その方法によってマルサスは「有効需要」の貨幣理論を構成していくのである。彼は産出量を決定するものは 貨幣にあると考えており、また彼は商品の価格と資本の利潤は地代支出や公共事業による有効需要 (――ヒューマニズムや人権論者の主張する生存権とは異質の考え!)によって決定されると考えていた。 それ故に彼はケインズから「ケンブリッジ経済学者の始祖」(『人物評伝』)と称されるようになる。 これ以外にもマルサスには今日の日本経済に対して示唆的なものがある。それは農業と工業との違いに ついてである。農業の主要な生産手段である土地は資本投下によって改良することができるが、 それにも限度があり、品質にばらつきが大きい。その点で土地は機械と異なる。土地には人工物でない 「自然の賜物」(『地代論』パンフレット、1815年)の要素がどうしても残るのである。マルサスは その認識のうえに、農工のバランスある産業構造や食料自給率の向上を考えていく。 マルサスがダーウィンの進化論形成史に登場することを付言しておこう。 マルサスは『人口論』初版の第9章で次のようにコンドルセの人間の無限完成論を批判する。 人間の寿命は気候や栄養・風俗等が良ければかなり延びるだろう。また人間の身体的特質を 遺伝的に改良することはできるだろう。しかし不老不死を実現できると考えるのは不合理である。 そう論じる中で、彼は遺伝的改良の例示として、ビッカースタフ家における結婚上の注意や乳搾りの 女性モードとの血の交わりをあげた。この部分が1838年当時の ダーウィンに、彼の選択法則や淘汰説の考えに近いものを感じさせたのである。 『人口論』初版は成功して売り切れ、当時から稀覯本であった。現在それは大変な高値で古書市場に出ている。 日本の購買力(――研究者の財布とは無関係)がこの市場価格の水準に影響力を与えている。 |
J.M. Keynes
1)The Economic Consequence of the Peace, Macmillan and Co. London, 1919.
2)A Revision of the Treaty, Macmillan and Co. London, 1922.
3)A Tract on Monetary Reform, Macmillan and Co. London, 1923.
4)The End of Laissez-faire, Leonard and Virginia Woolf. London,
1926.(2nd Impression)
5)Essays in Persuasion, Macmillan and Co. London, 1933.
6)The Means to Prosperity, Macmillan and Co. London, 1933.
7)How to Pay for the War, Macmillan and Co. London, 1940.
ヨーロッパの資本主義の構造は19世紀後半から20世紀にかけて、 特に第1次世界大戦を契機にして、変わる。それは私企業間の 自由競争から大企業による寡占価格の経済へ、金本位制から 管理通貨の経済へと変わる。そのダイナミックに変化した現実 を認め、それの経験に合う新たな経済学が必要となる。 A.バーリとG.C.ミーンズは株式会社の発展によって 市場が寡占化し、会社の資本所有と経営とが分離していること を認めた。企業は価格競争を避け、ある程度価格を管理するよ うになる。経済活動はかつてのように勤勉と節約による資本形 成や物的な所有権の安全を基礎とするものでなく、株式の発行 と銀行からの借り入れの債権・債務関係を基礎とするものに移 っていくのである。そして企業は実際には株主だけのものでな く、経営者・労働者・関係会社・消費者の利益を考えるものに なっている、あるいはそうでなければならぬものになっていく。 また、国際経済面では金本位制が崩れていった。それまでは金 が価値の最終的な尺度であり、各国の物価は金の国際移動によ って自動的に調節されていたのであるが(その裏で恐慌とブー ムの景気循環があった)、今や金は主要国の中央銀行によって 管理された通貨となる。それは世界の工場と金融センターがイ ギリスからアメリカに移ったことでもあった。J.A.ホブソ ンはそれまでの自由貿易体制は崩れ、欧米の列強が(日本を含 めて)領土拡張の新帝国主義の段階に入っていることを認め、 その背後に金融階級の利害があることを解明する。 新たな現実を踏まえた新たな経済学が必要となる。それなの に政治家も国民も古い自由放任主義の考えに囚われていた。バ ーリ=ミーンズとは別に、ケインズがそれを打破する。 ケインズの経済政策はその後の1970年代に試練を受け、その経 済学も再検討の対象となる。だが、その学問的方法や世界観は今 日なお、生きている。それは、凡そ古典の名に値する経済学が皆 そうであったように、経験科学的であり、政治経済学的であった からである。その方法やヴィジョンは今回紹介するもの(『一般 理論』以前のもの。7)の1点を除いて)によく現れている。 ケインズは特に「債権者」の行動を問題にする。イギリスは 17・8世紀から続く植民帝国であり、植民地に開発投資をしてき ていた。また、19世紀半ばには有限責任の株式会社条例が成立し ていた。そのためにイギリスでは債券や株式に投資する独特の階 級が成立する。彼らはイングランドの南部に典型的に見られる上 流階級であった。彼らはお金を持っている。けれどもうまみのあ る投資先を見つけることが次第に難しくなっていた。そこで彼ら はお金を手元に置いておき、いつでも使える状態にしておこうと する(「流動性選好」)。こうなると、お金は商品の購買手段 (古典派の貨幣観)でなくなり、価値の保蔵物(マルクスが重商 主義を再評価して注目した貨幣の働き)となる。これではお金は 実業界にまわって生産力を改善することにならない。ケインズは また実業家の心理にも注意を向けた。大企業の経営者は寡占状態 では保守的となり、積極的にお金を借りて競争しようという気に なれないでいる。そこで彼は金融階級と実業階級を結びつけ、貨 幣が流通する仕組みを作ることで、生産の拡大・雇用の確保・所 得の上昇を考えていく。 時代は1930年代の大恐慌に向かいつつあった。その時にあって、 金融階級は債権者としての利益を守るために、為替の安定と通貨 価値の上昇を求め、デフレ政策を要求する。通貨価値は第1次大 戦の戦時インフレのために下落していたのである。彼らは第1次 大戦前の高い貨幣価値に戻ることを、つまり金の輸出解禁=金本 位制への復帰を要求する。こういう彼らの貨幣観は古典派的な中 立貨幣観であった。しかし、この政策は実際には不況をますます 激しくし、実業家の経営意欲を消沈させるものであった。これに 対して、ケインズは実業家階級の立場に立ち(労働者階級を含む )、通貨価値を戦時インフレ以後の低くなった現実の水準に近い ところに安定させようとする。それは物価水準を上げ、そのこと で投資水準を上げて雇用と賃金を改善しようというものであった。 こういう彼の貨幣観は経済に対して操作可能であることを認めるも のであった。 ケインズは利子生み資本(G……G')に対して産業資本(G―W …P…W'-G')の立場に立つ。彼はその立場から中央銀行による 利子率の操作と財政による有効需要の創出=公債による公共事業を 提案する。これがケインズの修正資本主義と言われるものである。 それは当時のコミンテルンの末期資本主義観とは異なり、資本主義 を改革すればその生命力をなお活性化できるという考えであった。 ところが、その彼は伝統に骨化した自由主義者やシティ筋から「社 会主義」呼ばわりされることになる。彼は実際にはケネーやスミス、 リカード等の経済学の本来の伝統に沿い、経済構造の歴史的な変化を 認識した上で、「所有としての所有」を批判し、産業資本と労働の双 方の「国民的利益」を実現しようとするのであった。 ケインズと同様の認識と政策が戦前・戦中の日本にも現れる。 |
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1)はケネーの弟子デュポン・ド・ヌムールの編集になる著作集(1767-68年)であり、 そこに「経済表範式」が載る。だが彼は師の理論よりも政策を重んじ、その政策も穀物貿 易の自由を強調して他の単一地租論を軽視していた。彼は師の「金利論」(利子率規制論 )にも反論すべきものを見ており、それをこの著作集から外す。この点で彼は誠実な編集 をしていない。 2)はA.オンケンが編集した本格的なケネー著作集である。オンケンは「アダム・スミ ス問題」――スミスはフランスで啓蒙思想家やケネーらと交わる前は利他心の倫理学者で あったが、交わった後から利己心の経済学者に転換したのでないか――の提起者である。 彼はケネーをスミスに比肩する経済学者とみなし、最初の経済学理論の体系を生んだ人と 評価する。ケネーは1774年に亡くなるが、スミスは彼が存命しておれば、『国富論』 (1776年)を捧げるつもりであったらしい。『国富論』は成功し、ケネーはその後低く評価 されていく。オンケンはスミスが『国富論』でケネーを不利に扱ったからだと見る。オンケ ンはそのケネーの復権を求めて、ケネーの哲学的・経済学的著作の全般を集め、伝記的資料 をつけて公表する。(但し、医学関係の専門論文は少なく、経済学文献もその後に発見され た経済表「原表第一版」・「第二版」・「第三版」や「人間論」・「租税論」は入っていな い。)編集は原文に誤りがあってもそのままにしておくほどに厳密であり、注も綿密かつ批 判的である。 日本ではケネー研究は戦前から戦後にかけて比較的盛んであった。ケネーと言えば、一枚の 「経済表」で有名であるが、その解明に何人もの人が多大の時間を割いてきている。ケネー にそれだけの価値があるからである。経済学の歴史は今日に至るまでイギリス経済学が主流 であるが、フランス経済学にも独自の貢献がある。加えてイタリアやドイツ、アメリカ、そ して日本にも(!)。その主流の中のスミス経済学にしても、実はケネーとの接触がなけれ ば生誕しなかったと思われるほどに、ケネーから大きな刺激と影響力を受けているのである。 ケネーの意義を簡単にあげておく。 彼は後の数理経済学の祖とみなされることがあるが、それは統計実証的で経験的な基礎を踏 まえたものである。彼は人間の知性を感覚に基づかせている。知性は一般的な観念を用いる が、それは実体としてあるのでなく、感覚的に得られた事実を再生・加工し、真実に迫って いくための道具と考えられている。彼はその概念を、事業家が沢山ある書類の中から調べる 必要のあるもののありかを示すために用いる「付箋」とみなす。これはノミナリズム的な認 識論である。 ケネーはフランスの農業経済事情を調査している。その調査はアンケート方式を用い、数量 化したものを集計していく。その分析は実に周到で体系的である。最初に現状を次のように つかむ。栽培作物ごとに・経営規模ごとに、それぞれ土地生産性や土地単位当り・作物単位 当りの価格、土地単位当りの総経費と剰余価値量、作物総生産高に占める利害関係者の取り 分が計算される。それらを合計するとフランス一国の現状が分かる。次に政策を変えた場合 の「自然的秩序」のもとでの理想値が計算され、現状との比較がなされる。 ケネーは以上の経験論的認識と統計調査および数理的分析の上に、自然法思想を入れて、一 国経済のマクロ的再生産過程=「経済表」を作図する。それは社会の三階級の支出と収入の 間の複雑な連関を、農工2部門間の物的・価値的補填の関係を、ただ一瞥しただけでつかむ ための工夫であった。これはスミスに優るものである。 以上のことと別に、スミスがケネーから刺激を受けたり学んだと思われることがある。自由 競争下での商品の等価交換と生産における価値作出論、貿易差額=富観念と貨幣階級の「非 」国民経済学性の批判、国内市場重視論、重商主義の国家構造分析と新たな国家構想、等。 経済学の歴史は決して単純発展でなく、かなりジグザグである。後代のものが先代のものよ り優れているとは必ずしも言えず、どの経済学にもその対象領域・成立事情・方法において 個性がある。経済学は一つでなく。「諸」経済学なのである。 |
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今回の追加文献は、マルクス『資本論』初版の復刻版(青木書店、1959年。No.6の番号入り)である。他にも復刻版は出ているが、この青木書店版には編集者の序言がない。 経済学の古典の中で『資本論』ほど大きな影響力を後にもたらしたものはない。マルクスは「マルクス主義」者でなかったが、マルクス主義の栄光と悲惨は現 在では過去のものとなりつつある。東西体制がなくなった後、改めて再審に付された『資本論』は今日の世界資本主義を捉えるのにどう有効な示唆を与えてくれ るか、まじめな試みが続いている。 私は前世紀末の98年に市民講座でスミス経済学について話すことがあった。その時に経済学は体制を弁護したり、教科書になる性質のものでないことを述べ た。マルクスの『資本論』もソ連の体制にとって恐ろしい本となっていたのである。1960年代にポーランドのY・クーロンとK・モゼレフスキーによって ポーランド統一労働者党への『公開状』が出されたが、それはマルクス『資本論』の方法によってポ-ランドの現状を批判的に分析したものであり、当局によっ て反体制的だと処罰されたのである。日本でも同じころ内田義彦や平田清明等によって「社会主義における市民社会」の問題が提起されていた。彼らが日本の経 験とマルクス研究から得た社会主義像はまったく革新的であり、資本主義時代に獲得した事実上の生産手段の共同利用を基礎とした「個体的所有の再建」、ある いは「自由人の連合」というものであった。私はそこまで言って問いを投げた。ではスミスはどうか。彼の『国富論』は自由主義体制を弁護するものか。そうで はないという趣旨のことを話した。当日の私の解説は聴講者に十分には伝わらなかったようだが、およそ、経済学の古典と言われるべきものは、人が自己を含む 社会を自分の頭で認識することを促すものであって、暗誦したり上から注入される性質のものでないことは確かである。 『資本論』は当初全3巻で予定されていたが、第1巻のみがマルクスによって刊行された。あとの第2・3巻はエンゲルスによって編集・出版される。また第 1巻だけでも改訂が第2版、フランス語版と続く。したがって『資本論』は未完成であって閉じた体系でなく、開かれた認識の書なのである。理論は実践されな ければ、空虚である。だがそれは時代のものとなった時に変質する。その既成マルクス像に対してゆがんだマルクス批判がなされてきたし、現在では時代の風潮 に乗ってマルクス軽視がはびこる。どちらも自分でマルクスを読むことなく、古典を狭い意味での「政治」下に押し込めている。 かつて「老人のマルクス」があってよいと言う人がいた。では、「主婦」や障害者、多国籍企業の現地派遣員やNGO、移民や非正規雇用者にとってのマルクスはないだろうか。 |
国富論と安価な政府・見えざる手
こくふろん
目次:
国富論
イギリスの経済学者アダム・スミスの主著。1776年刊。『諸国民の富』とも訳される。原書名は『An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations』(諸国民の富の性質と原因に関する研究)で、5編からなる。スミスの奥行の深い道徳哲学や自然法学のなかから生み出された書物であり、単なる経済学の古典にとどまらず、広く市民社会思想の古典としての位置を占めている。それゆえに、それは後の経済学に受け継がれただけでなく、ヘーゲルやマルクスによって一つの市民社会体系として受け止められた。日本近代史のなかでも、それは富国策としてばかりでなく、市民社会化の指針として受け入れられてきた。
スミスは、この書で富の源泉を探究したが、当時は、重商主義の金銀貨幣=富観と、重農学派の農業だけが富の源泉だという見方とが対立していた。スミスは、これに対して、年々の労働が富の源泉であり、したがって、一国の富は、第一に、農工商などの生産的労働における分業の細分化によって、第二に、生産的労働者を雇用する資本蓄積の度合いによって左右されるとみなした。そして、これを妨げている封建制や重商主義の停滞性・浪費性を批判した。全5編のうち1、2編は、分業、貨幣、価値、価格、分配、資本蓄積などの理論的分析を、3、4編は、封建的土地制度や重商主義の貿易・植民地政策の批判を、5編は、国家財政を主題としている。
スミスにとって最大の問題は、根強い独占根性を有する一部の大商人・大製造業者の働きかけによって、国家の政策や立法が不当にゆがめられていることであった。そのため、植民地貿易などを通じて独占利潤が生じ、資本や労働の最適配置が妨げられ、総体としての富の増加が抑えられてしまう。また、その独占的貿易政策のため、友好国たるべきフランスと長期にわたる敵対状態に陥り、さらに、アメリカ独立戦争も起こってしまった。その経費をまかなうために赤字公債も累積しつつあった。したがって、1、2編で論証された自然的自由のあり方に即して政策や法を正すことが、3~5編を貫くスミスの課題であった。このような文脈のなかで「見えざる手」や「安価な政府」の観点が展開された。
[星野彰男]
見えざる手
みえざるて
目次:
見えざる手
invisible hand
イギリスの古典派経済学者アダム・スミスが『道徳感情論』(1759)と『国富論』(1776)で、それぞれ一度ずつ使ったことばであるが、彼の予定調和の思想=自然法思想を象徴することばとされている。『道徳感情論』では、自然的秩序の成立は、諸個人の自己愛を制御する神の導きによるものとされている。しかし、『国富論』では、利己心の抑制を求めるのではなく、諸個人の利己的な経済活動が、結果的には、社会の生産力の発展に寄与し、また諸階級の利害も調整されて、繁栄のなかに自然的調和が成立することを、日常の経験的事実から演繹(えんえき)的に記述しようとしているのである。彼の理論において、自然的調和と繁栄に導くものは、自由競争市場における価値法則の作用と、利潤動機に導かれた資本投下の自然的序列=「富裕への自然のコース」であった。したがって、これが神の「見えざる手」の作用の具体的な現れと考えることができるのである。こうした自然的秩序を混乱させるものとして、重商主義国家による経済への介入を、彼は強く批判したのである。
[佐々木秀太]
夜警国家
やけいこっか
目次:
夜警国家
Nachtwchterstaat ドイツ語
17世紀中葉から19世紀中葉にかけての資本主義国家の国家観。個人が自由にその経済活動を行えるように、国家の機能は、外敵の防御、国内の治安維持、必要最小限の公共事業にとどめるべし、という国家観。この国家観では、経済的には自由放任主義、財政的には「安価な政府」つまり「最良の政治(政府)は最小の政治(政府)」がよしとされる。夜警国家ということばは、ドイツの国家社会主義者ラッサールが、自由主義国家をブルジョア的私有財産の番人・夜警として批判したことに由来する。19世紀末以降、各国において社会・労働問題が顕在化すると、これらの問題を解決するために国家は積極的に社会・労働・経済政策に取り組むべしという福祉国家・社会国家・行政国家の考えが登場した。
[田中 浩]
福祉国家
ふくしこっか
目次:
福祉国家
welfare state
一般には、国民の福祉増進を国家の目標とし、現実に相当程度に福祉を実現している現代国家をいう。19世紀的自由国家、夜警国家とは異なり、単に消極的な秩序維持にとどまらず、積極的に国民生活の安定・確保を任務とする国家であり、この意味では積極国家、社会国家Sozialstaat(ドイツ語)と同義である。なお、近世ドイツ=プロイセンの啓蒙(けいもう)専制王政も福祉国家Wohlfahrtsstaat(ドイツ語)とよばれていたが、それは、公共の福祉、人民の幸福増進の名のもとに、国家が人民の生活のすみずみまで干渉する警察国家Polizeistaat(ドイツ語)であった。今日、一般的に使われている意味での福祉国家は、1930年代末のイギリスで、ナチスの権力国家ないし戦争国家warfare stateとの対比において、国民の福祉の維持・向上を目ざす国家を意味するものとして用いられたことに始まり、第二次世界大戦後イギリス、スウェーデンなど多くの西欧諸国において、福祉国家の実現を目標とする諸政策が積極的に展開されたことにより、世界的に普及した。
福祉国家の目標としては、貧困の解消、生活水準の安定、富・所得の平等化、国民一般の福祉の極大化などが掲げられるが、その具体的内容はそれぞれの国の歴史的・社会経済的諸条件により異なる。たとえば、イギリスでの福祉国家の形成に大きな影響を及ぼしたビバリッジ報告『社会保険および関連サービス』(1942)によれば、個々人の資力にかかわりなく全国民にナショナル・ミニマムを保障し、それによって「窮乏からの解放」を実現することが社会保障の目標であり、そのための制度としては、稼得の中断・喪失時に最低生活給付を行う社会保険を主体とし、これを有効に機能させるための前提条件としての完全雇用の達成、家族手当および国民保健サービスの創設などが必要となる。
福祉国家の共通的特色の第一は、国民の生存権を保障するものとして、社会保障制度が確立していること。第二に、福祉国家は、経済的には資本主義の欠陥である貧富の格差や失業その他の不安定性を修正しようとする修正資本主義のもとでの国家であり、経済に対する国家のコントロールが広範に及んでいる国家である。第三に、政治的には、市民的自由と民主主義を基礎にしていることなどであるが、実際には行政権力の肥大化、官僚化などの問題を内包し、福祉国家論は現実を隠蔽(いんぺい)するイデオロギーであるとの批判もある。
[三橋良士明]
日本大百科全書
合理的予想仮説
ごうりてきよそうかせつ
目次:
合理的予想仮説
rational expectations hypothesis
家計や企業などの経済主体が経済変数の将来の値(たとえば1年後の物価水準、つまり向こう1年間のインフレ率)について予想する場合、その経済変数の値を決定する客観的仕組みについての知識、すなわちこの仕組みについての経済理論を統計データによって具体化した計量経済モデルを使って、その変数の将来値を計算し、それを予想値として採用するという仮説。合理的期待仮説ともいう。
この仮説はもともと1961年にJ・F・ミュースによって提唱されたものであるが、70年代初めごろにR・E・ルーカスやT・J・サージェントらがこの仮説に注目し、これを主要な構成要素とするマクロ経済モデル、すなわち「マクロ合理的予想モデル」ないし「新しい古典派モデル」を構築し始めたので、にわかに脚光を浴びるようになった。この新型マクロ経済モデルの登場は、学界に「合理的予想革命」とよばれるほどの強烈な衝撃を与え、現代マクロ経済学の最大の焦点となっている。
このモデルのもっとも注目すべき結論は、総需要管理政策によって実質国民所得や失業率のような実物変数を動かすことはできないという、完全に反ケインズ派的な結論である。図で、当初、経済は供給曲線(フィリップス曲線)S0S0と需要曲線D0D0の交点E0で長期均衡状態にあったとしよう。失業率は自然失業率Unで、予想インフレ率は実際のインフレ率0に等しい。いま、拡大的な貨幣政策が発動され、名目需要増加率が加速され需要曲線がD1D1にシフトするとしよう。もしこの政策発動にもかかわらず予想インフレ率が0のままであれば、供給曲線はS0S0のままであり、経済の短期均衡点はE1点となる。実際のインフレ率は0から1へ加速されるが、失業率はUnからU1へ低下する。つまり短期的なインフレと失業のトレード・オフが成立する。しかし合理的予想仮説のもとでは、需要曲線をD1D1へシフトさせる政策発動の情報が与えられると(またはこの政策発動が正確に予想されると)、各経済主体は図に図解されたような経済モデルから長期均衡状態におけるインフレ率が2になることを知り、ただちに予想インフレ率を0から2へ引き上げる。その結果、供給曲線はただちにS1S1へシフトする。経済は短期均衡点E1を経由することなく、政策発動と同時に新しい長期均衡点E2へシフトする。この場合には、インフレ率が0から2へ加速されるだけで、失業率はUnのまま変化しない。つまり合理的予想仮説のもとでは、インフレと失業のトレード・オフは短期的にも不可能となるのである。
実質国民所得や失業率の短期変動、すなわち景気循環の原因は、このモデルでは、予想外のインフレ率の変動に求められる。そしてR・E・ルーカスやR・J・バローはインフレ率の決定要因として貨幣量増加率を重視しているので、景気循環の原因は、結局、予想外の貨幣量増加率に求められることになる。またこのモデルでは、どのような貨幣政策ルールも実物的効果を生まないので、M・フリードマンのX%ルールよりも優れた安定化効果の期待できるルールは存在しないことになり、さらに、X%ルールこそその単純さのゆえに予想外の貨幣量の変動を防止し、優れた安定化効果が期待できることになる。このように、この「マクロ合理的予想モデル」は、貨幣量を重視し、ケインズ派の安定化政策の効果を否定し、X%ルールを支持しているので、M・フリードマンの「貨幣主義I型」に対して「貨幣主義型」ともよばれている。
合理的予想仮説そのものに対しては、政策ルールを含む経済構造に関する学習過程を無視している点、および情報の収集・利用のコストを無視している点で非現実的であるという批判が提起されているが、この仮説は、合理的行動という経済学の基本的公準に合致する点、および内生変数の予想値を同じく内生変数としてモデル内で説明できる点において、他の予想仮説よりも理論的に優れた特徴をもっている。有力な対抗仮説である適応的予想仮説は、予想しようとする変数の過去の実際値だけから予想値を計算し、その他のすべての有用な情報を無視する点、および予想誤差が連続的に発生しても予想方式の変更を認めない点において、明らかに欠陥がある。
最近ではマクロ合理的予想モデルに対するケインズ派による批判の重点は、合理的予想仮説そのものよりは、このモデルの他の構成要素、とりわけ、市場はつねに均衡するという均衡仮説と、生産活動は予想外のインフレに対してのみ反応するというルーカス型供給関数とに置かれるようになっている。マクロ合理的予想モデルとケインズ派モデルのいずれが真理に近いかは、つまるところ、経験的データによって支持される率がどちらが高いかによって判定されることになるであろう。
[加藤寛孝]
ルーカス
るーかす
目次:
ルーカス
Robert E. Lucas, Jr.
[1937― ]
アメリカの経済学者。新古典派経済学を奉じるシカゴ学派の代表的な学者である。ワシントン州ヤキマ生まれ。1959年にシカゴ大学で歴史学の学位を得た後、経済学に転じ、64年に同大学で経済学博士号を取得。カーネギー工科大学(現カーネギー・メロン大学)などを経て、75年からシカゴ大学教授。「合理的期待形成仮説(hypothesis of rational expectations)を発展させ、マクロ経済分析を変革し、経済政策に対する理解を深めた」との理由で、95年のノーベル経済学賞を受賞した。
1972年に論文「Expectations and the Neutrality of Money」を発表。裁量的な財政・金融政策による景気刺激策が有効だとするケインズ経済理論を批判し、政策無効命題を掲げて、景気低迷とインフレが同時に進行した70年代に注目を浴びた。人々は情報を最大限に活用して期待を形成するので、合理的期待を織り込んでいない計量モデルによる将来予測は当たらないとの仮説は、各国の政策に大きな影響を及ぼしている。
[矢野 武]
Tuesday, January 27, 2009
生産力と生産関係
物質的財貨を生産しうる力。労働力と生産手段とが一定の生産関係を通じて結合することによって生み出される。
せいさん‐かんけい〔‐クワンケイ〕【生産関係】 せい‐さん【生産】
物質的財貨の生産において、人間が相互に取り結ぶ社会的関係。特に、生産手段の所有関係をさす。生産力との統一が一定の生産様式を構成する。
せいさん‐ようしき〔‐ヤウシキ〕【生産様式】 せい‐さん【生産】
物質的財貨を生産する様式。生産力と生産関係との統一によって規定される。歴史的には、原始共同体的・奴隷制的・封建制的・資本主義的・社会主義的生産様式などがある。
ろうどう‐しゅだん〔ラウドウ‐〕【労働手段】 ろう‐どう【労働】
生産手段のうち、労働過程において人が労働対象に働きかけるために両者の間に介在させて使用するもの。道具・機械・建物・道路など。
ろうどう‐たいしょう〔ラウドウタイシヤウ〕【労働対象】 ろう‐どう【労働】
生産手段のうち、労働過程において人が働きかけて変化を与える対象。原材料・土地・樹木・鉱石など。
日本大百科全書
生産力・生産関係
せいさんりょくせいさんかんけい
目次:
生産力・生産関係
productive force , relations of production 英語
Produktivkraft , Produktionsverhltnisse ドイツ語
生産力は、一般に労働生産力として考える場合は、1人の労働者が一定時間内に生産する財貨の分量で示されるものであるが、マルクス経済学の基本的用語の一つとしての社会的生産諸力に限っていうならば、それは労働主体が労働手段を用いて労働の自然的対象に働きかけを行い、自然そのものをつくりかえると同時に、人間と社会をもつくりかえながら財貨と人間を絶えず再生産してゆく諸力を現す。人間と社会が存在するためには財貨の再生産が必須(ひっす)の条件となる。人間は生産過程で生産手段(労働手段・労働対象)を用いて人間の労働能力、つまり労働力を行使して財貨を生産する。生産力とはこの労働力と生産手段によって構成される。社会的生産力とはこのうちの労働力と労働手段とからなると考えられる。労働対象には、まだ人間の労働によってつくりかえられていない自然(土地・水や地下に埋蔵された資源など)のほか、すでに人間の労働によってつくりかえられた原料などがあり、それらは自然的生産力となるものではあるが、狭義の生産力概念としての社会的生産力には含めないのが通例である。労働手段についても、機械や道具など生産に際して直接的・積極的役割を果たす生産の筋骨系統は生産力の一要因としても、容器や管など生産に対する役割が間接的・消極的な生産の脈管系統は生産力に含めない。また、生産にとって直接的なかかわりはなくとも、社会的生産を支える諸条件をなす道路・運河・港湾などは生産力の一要因と考えられる。しかし、労働手段は労働力と結び付くことによって初めて社会的生産力となるものであって、両者が結合しない限り、それらは潜在的生産力ではあっても現実的生産力とよぶことはできない。しかし両者のうち労働力はこの結合に際し能動的な役割を果たすものであって、その意味で労働力こそ生産力の第一の要因であるとしなければならない。
こうして生産力は労働力と労働手段の結合によって形づくられるが、この有機的結合を規定するものが生産関係である。生産関係は財貨の生産において人間が相互に取り結ぶ社会的関係であって、それは生産のみでなく分配・交換・消費の全経済過程における人間の諸関係を規定する。生産力が人間の自然的対象に対する諸力という内容であるならば、生産関係はこの内容に一定の形式を与えるものである。このようにして生産力と生産関係の統一は生産様式とよばれる。生産関係はなによりも生産手段の所有関係である。人類史的にみれば、生産手段は初めは社会の全構成員が共同で所有した(共同所有)。しかし、生産力の発展によってそれはしだいに私的に所有されるようになった(私的所有)。この過程は、さらに生産力の発展の程度にしたがって、アジア的・古代的・封建的・近代ブルジョア的な生産関係に区別される。この経過はまた、生産手段の所有関係が直接的な人格的関係として示される段階から商品という物的関係を通して現れる段階への移行として示される。資本主義社会では、生産手段の所有者である資本家と非所有者である労働者の関係は商品の所有と交換を通して現れる。
社会の発展は生産力と生産関係の弁証法的関係のうちに行われる。一定程度発展した生産力にはそれに対応する生産関係が取り結ばれるが、生産力の発展につれて生産関係がやがて維持されえなくなると、発展した生産力にふさわしい生産関係が新たに形成されることになる。
[藤田勝次郎]
蜂女王の生活
『ブラジルの養蜂』 麻生悌三さんの今年最後の寄稿です。 | ||
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世界の蜂蜜の年間の生産量は、約120万トンと見積もられている。主要生産国は中国 (28万トン)、アメリカ(18万トン)、アルゼンチン(8万トン)である。ブラジルは2万トンである。主要輸出国は中国(年間8万トン)、アルゼンチン (6万トン),メキシコ(3万トン)である。ブラジルは1,2万トンを2007年にアメリカ、欧州に輸出している。一方、主要輸入国は、アメリカ(年間 10万トン)、ドイツ(9万トン)、日本(5万トン)、イギリス(3万トン)である。 ―ブラジルの養蜂 ブラジルにも、原種の蜜蜂はいるが、企業的に用いられている蜂は、18世紀にポルトガルから持ち込まれた,欧州種の蜂であり、その後、ドイツ、イタリーからも移入された。 企業的規模の養蜂は、絶えず蜜源たる花を求めて移動する。パラナ州からピアウイ州まで移動する業者もいる。蜂の巣箱一つには普通3万―5万匹の蜂が収容され、一匹の女王蜂、 3-5%の雄蜂(種付けだけの役目)と95%以上の雌蜂(働き蜂)によって構成される。 この巣箱の数はブラジルでは200万個あると言われている。ブラジルは厳しい冬がなく、 1年を通して採蜜が可能であり、養蜂の効率も良いが,蜜源の花と種類が無数にあり、蜂蜜の種類(花の種類)が限定されにくく(北半球のレンゲ、クローバー等蜜源による区分) 色々の花蜜の混じった蜂蜜が生産される。 欧州種の蜂はおとなしく取り扱い易いが、暑さに弱く、サンパウロ州以北の養蜂は効率が良くないと言われて来た。東北伯方面の養蜂の発展のため、政府は品種改良を模索してきた。 1956年にピラシカーバ農大のケール教授は獰猛だが、採蜜能力も高く、暑さに強いアフリカ蜂を試験用に数群導入した。サンパウロ州リオクラーロの試験場 で、管理ミスから1群が逃げ出す事件があった。逃げ出したアフリカ蜂は野生化し、欧州種蜜蜂と交配を重ね拡散した。アフリカ蜂は勤勉性と引き換えに,気性 が荒く、遺伝子が優性であるため、欧州種の交配で益々凶暴化してしまったKiller Bee(殺人蜂)の誕生により相次ぐ人畜の被害は拡がり(アメリカでスオームと言う題名の映画も作られた)。1957年に逃げ出して 以来28年後の1985年には野生化したアフリカ蜂はパナマに到達した。パナマで蜂の 北上阻止の方策が取られたが、突破され、1990年にはメキシコに到達し、一部はカリフォルニアに侵入した。アフリカ蜂は出身地の影響で寒さに弱く、この 辺が北上の限界地と見られている。(南下はラプラタ河で止まっている)。現在のブラジルの蜜蜂は全て欧州種とアフリカ蜂の交配種であり、その凶暴性と引き 換えに、ブラジルの蜂蜜の生産量は数倍に上がった。 ―蜜蜂の不思議な生態 世界の蜂の種類は2万種と言われているが、蜜蜂ほど類いまれな社会性を持ち、神秘的な昆虫はない.1匹の女王蜂は1日に約2千個の卵を産み、しかも長寿で6-7年生きる。 数万の働き蜂(全て中性化された雌)は40日位で生涯を終える、又、種付けだけの役目の数百匹の雄蜂は交尾が終わるいなや死ぬか、交尾にあぶれて巣に帰っ ても、やがて、働き蜂に追い出されて飢えて死ぬ。同じ雌に生まれて、1匹の女王蜂になるか、数万匹の働き蜂になるかは、卵から孵化して3日後の餌によって 決定される。孵化した幼虫は3日間は同じ餌を与えられるが、女王蜂になる雌蜂はローヤルゼリーを与えられる。一方、働き蜂になる雌蜂は蜂蜜と花粉で育つ。 働き蜂は中性化されるホルモンを女王蜂が分泌して与えられる。女王蜂は雄蜂と雌蜂を自由に産み分けられる.雄の卵を産む時は、受精嚢の口を閉ざして,精子 を出さない、単為生殖の不受精卵になる。雄は採蜜も行わず、働き蜂に餌を貰い交尾だけの役目である。働き蜂より目玉の大きい雄は春先から夏にかけて、数百 匹が羽化し、晴天の日に地上15メートルの上空で女王蜂の舞い上がるのを待ち受ける。 女王蜂が舞い上がり,性ホルモンを発散させ飛翔する。女王蜂に追いついた雄1匹だけが 交尾を行い、交尾が終わったと同時にショック死する。 蜜蜂の社会は女王蜂1匹と中性化した雌の働き蜂の2大階級社会で、空中で交尾した女王蜂も産卵一筋で他の機能は退化してしまい働き蜂に食事の面倒まで見てもらう。働き蜂は 卵巣が萎縮し産卵機能は喪失している。巣の掃除、保育、門番、採蜜等を順番に成長日ごとに換えて行う。羽化後3日たつと、口から蜂乳を出して、口移しで幼虫を保育する、羽化後2週間経つと巣つくり及び採蜜より戻った働き蜂から口移しで蜜を受け取り貯蔵する 仕事。羽化後20日経つと巣の門衛となり、さらに2-3日経つと外勤に転じ10日ぐらいの間、蜜を集める。私たちが、外で見かける蜂は年老いた働き蜂である。 10匹の蜂が集める蜜の重さが1グラム、スプーン一杯の蜜を集めるのに200回の採蜜が必要となる。集めた蜜はそれだけでは蜂蜜にならない。巣で待ち受けている蜂に口移しで蜜お移し、蜂の内臓で発酵させ、花蜜を蔗糖からブドウ糖に変えます。その糖度の低い蜜 を羽を動かし風を貯蔵庫に送り、水分を飛ばして、糖度を高めます。糖度が80%ぐらいになると(糖度80%、水分20% - Brix 80)巣房に蓋をして貯蔵します。因みに、針を持っているのは働き蜂だけで、雄蜂(蜜蜂のみ)は針を持ちません。働き蜂の針も1回刺すと内臓も飛び出し死 んでしまう(すずめ蜂のように何回も刺ししかも雄は強力な針を持つ蜂もある)。女王蜂も針はあるが、これは新しく誕生した妹女王蜂と女王の座をかけて争う 時に使う姉妹決闘用の針で人は刺さない。 数万匹の社会に君臨した女王蜂が死んだらどうなるか。その時は中性の働き蜂に変化が起こる。孵化後3日以内の雌の巣房に改造がおこなわられる(女王蜂の体 は働き蜂の数倍あり幼虫の6角形の巣房を広げないと収容できない)。そして、ローヤルゼリーが選ばれた1匹に与えられて、シンデレラ姫の誕生となる。 幼虫がいなかった場合は、中性化された働き蜂の卵巣が目覚め、産卵を開始し、急場をしのぐ。又、女王の産卵能力が25%以下になる時(1日500個以下の産卵)、女王は娘の 女王に座を譲る。新女王が誕生すると,旧女王は配下の働き蜂を引き連れて巣を出てゆく 掟になっており、これを分封と言う。分封の際、出てゆく働き蜂は蜜の貯蔵庫から腹いっぱい蜜を吸いだして持ってゆくので、巣に残った新女王と働き蜂が栄養失調になるケースも起こる。分封が終わって新住居に移ると、女王蜂に再び女王物質が分泌され、集団は統制される。 ―蜂蜜の蜜源(花) 働き蜂は蜜源のありかを仲間に知らせるダンスを踊る。蜜源が100メータ以内の場合 8の字に動き、蜜源のありかの角度を知らす。それ以上の距離の場合は円形に動く、距離 が遠いいほど、動きはゆっくりとなる。採蜜は巣から半径1キロの範囲で行うのが普通。 蜂蜜は花の種類によって香りや、味が変わり、成分もそれなりの特徴が現れます。 世界的に有名な花の蜂蜜は。クローバー=カナダ、アルゼンチン、ラスベリー=アメリカ ローズマリー=スペイン、アカシア=ルーマニア、中国、レンゲ=日本、中国、コーヒー =ガテマラ、オレンジ=メキシコ。 ブラジルでも少ないが特定の花に限定した蜂蜜がある。 植物名 薬効 ユーカリ 呼吸器系 オレンジ 整腸剤、沈静剤 砂糖黍 虚弱体質 カシュー 風邪 marmeiro 糖尿病 assa peixe 虚弱幼児 guaco せき agriao 風邪 cipo uva 肝臓 ―プロポリス プロポリスとは植物の樹皮,葉、樹脂等を蜂の唾液で練った物に蜜蝋、花粉、酵素が混じりあった有機物である。主要成分のフラボノイドに抗菌作用があり、防腐効果も高い。 蜂の巣箱の隙間にプロポリスを塗り、バクテリアの浸入を防ぐ防壁を作る。全ての蜂が プロポリスを作る訳で無く(日本蜜蜂は作らない)、主役はアフリカ蜂である。プロポリス を採るためには、蜂蜜を採るのとは異なり、森林中に巣を置き、バクテリアの浸入を防ぐ防壁を作らせる。その防壁をかきとった物がプロポリスの原塊である。ブラジルの亜熱帯 圏の森林中には多様な植物が茂り、豊富な原料があるが、ビールスも強力である。従い、より効果的にプロポリスを張り詰める必要がある。薬効も北半球のプロポリスの5倍近く強い。採集量は巣箱一箱から年間で100 - 300グラムである。 1982年からプロポリスの採集を目的とした養蜂が始まり、1985年に300キロの輸出が行われた。1999年には年間50トンの輸出が行はれた(仕向刻は95%日本向け)。 最近はブームも去り、年間30トン程度の輸出で、輸出高は約6百万ドル程度。産地はミナス州とパラナ州が多いい。一般的なプロポリスの成分は次の通り。 フラボノイド、ビタミン、ミネラル 5% 樹脂,芳香柚 50-55% 蝋 25-30% 植油 10% 花粉 5% 輸出業者は約30軒あり、その中でMNプロポリスのシェアーが40%ぐらいあると推測する。 以上 麻生 2008年-6月3日 |
福祉国家と市場原理
完全雇用と社会保障政策によって国民の福祉の増進を目標としている国家。
日本大百科全書
福祉国家
ふくしこっか
目次:
福祉国家
welfare state
一般には、国民の福祉増進を国家の目標とし、現実に相当程度に福祉を実現している現代国家をいう。19世紀的自由国家、夜警国家とは異なり、単に消極的な秩序維持にとどまらず、積極的に国民生活の安定・確保を任務とする国家であり、この意味では積極国家、社会国家Sozialstaat(ドイツ語)と同義である。なお、近世ドイツ=プロイセンの啓蒙(けいもう)専制王政も福祉国家Wohlfahrtsstaat(ドイツ語)とよばれていたが、それは、公共の福祉、人民の幸福増進の名のもとに、国家が人民の生活のすみずみまで干渉する警察国家Polizeistaat(ドイツ語)であった。今日、一般的に使われている意味での福祉国家は、1930年代末のイギリスで、ナチスの権力国家ないし戦争国家warfare stateとの対比において、国民の福祉の維持・向上を目ざす国家を意味するものとして用いられたことに始まり、第二次世界大戦後イギリス、スウェーデンなど多くの西欧諸国において、福祉国家の実現を目標とする諸政策が積極的に展開されたことにより、世界的に普及した。
福祉国家の目標としては、貧困の解消、生活水準の安定、富・所得の平等化、国民一般の福祉の極大化などが掲げられるが、その具体的内容はそれぞれの国の歴史的・社会経済的諸条件により異なる。たとえば、イギリスでの福祉国家の形成に大きな影響を及ぼしたビバリッジ報告『社会保険および関連サービス』(1942)によれば、個々人の資力にかかわりなく全国民にナショナル・ミニマムを保障し、それによって「窮乏からの解放」を実現することが社会保障の目標であり、そのための制度としては、稼得の中断・喪失時に最低生活給付を行う社会保険を主体とし、これを有効に機能させるための前提条件としての完全雇用の達成、家族手当および国民保健サービスの創設などが必要となる。
福祉国家の共通的特色の第一は、国民の生存権を保障するものとして、社会保障制度が確立していること。第二に、福祉国家は、経済的には資本主義の欠陥である貧富の格差や失業その他の不安定性を修正しようとする修正資本主義のもとでの国家であり、経済に対する国家のコントロールが広範に及んでいる国家である。第三に、政治的には、市民的自由と民主主義を基礎にしていることなどであるが、実際には行政権力の肥大化、官僚化などの問題を内包し、福祉国家論は現実を隠蔽(いんぺい)するイデオロギーであるとの批判もある。
[三橋良士明]
市場経済
個々の経済主体が自由に経済活動を行い、財・サービスの需要と供給は市場機構によって社会的に調整される経済制度。→計画経済
けいかく‐けいざい〔ケイクワク‐〕【計画経済】 けい‐かく【計画】
一国の経済活動全般が、中央政府の意思のもとに計画的に管理・運営される経済体制。生産手段を公有化した社会主義国家経済の特徴の一つ。
日本大百科全書
計画経済
けいかくけいざい
目次:
計画経済
1. 計画経済の思想
2. 計画経済の基本問題
3. 分権的計画経済の構想
4. 混合経済システム
planned economy 英語
Planwirtschaft ドイツ語
conomie planifie フランス語
плановое хозяйство / planovoe hozyaystvo ロシア語
本来的には、経済発展が自然成長的に行われるのではなく、社会の側からの「意識的制御」のもとに置かれているような国民経済をいう。現実には、この「意識的制御」は国家が策定する計画とその実施に対する国家的コントロールという形をとり、ソ連の例にみるように、生産、流通、分配のほとんどすべてが集権的な中央計画の統制下に置かれるというのが従来の通例であったが、それだけが意識的制御の唯一の形態ではない。労働者自主管理と市場経済を結合したユーゴスラビアの経済システムはすでに1950年代にソ連型の集権的計画経済モデルから離脱しているし、ハンガリーは68年の経済改革で基本的に分権モデルに移行した。その他のソ連、東欧諸国でも、集権制はいくらか緩和の方向に向かい、70年代末からは、より市場志向の強い「第三波」改革がハンガリーで開始された。これに小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)改革下の中国、ついでペレストロイカ下のソ連が合流し「市場社会主義」に接近するかに思われたが、この流れも89年の「東欧革命」、91年の「新ロシア革命」による政治主導の体制転換で中断され、計画経済体制が崩壊することになった。ひとり「社会主義市場経済」を掲げる中国の経済体制も計画経済イメージとはきわめて異なる「市場社会主義」の一種といえよう。
計画経済の思想
社会(人間)による経済発展の意識的制御という思想を社会主義と結び付けたのは、いうまでもなくマルクスとエンゲルスである。彼らは将来社会の詳細な青写真を描くことにはきわめて禁欲的であったが、自分たちの主要な課題とした資本主義経済の運動法則の解明から引き出される限りで、将来社会の一般的な機能原理の問題を提起した。その核心をなすのが、商品生産、市場機構の除去によって社会的な生産を社会の意識的・計画的制御のもとに置くという構想である。
およそどのような社会も、利用可能な生産要素(労働と設備、資材などの生産手段)を社会のさまざまな欲望に応じて各種の部門に配分(資源配分)することが必要であるし、また、経済社会の進歩を前提とする限り、社会的な労働生産性(効率)を絶えず向上させることが必要となる。生産手段の私的所有に基づく資本主義経済のもとでは、この資源配分と効率向上という二つの課題は、基本的には市場機構によって処理される。市場でより有利に売れるものの生産に社会の資源が移動してゆき、社会のさまざまな欲望に見合った産出構造がつくりあげられていく。同時に超過利潤を得ようとする個別資本の競争を通じて、社会的生産コストの低下が図られる。しかしながら、以上はいずれも市場での需給と価格の変動を通じて行われるから、必然的に事後的かつ自然成長的な調整過程となり、恐慌や破産、失業のような社会的浪費を伴わずにはいない。
これに反し、生産手段を社会的所有に移した社会主義のもとでは、物質的財貨の生産、流通、分配は社会の意識的な制御のもとに置かれ、経済発展はあらかじめ作成された国民経済計画に基づいて行われる。したがって、資本主義のもとでの間接的、事後的、自然成長的な資源配分と社会的分業の調整様式にかわって、経済社会全体を「一つの工場」のように組織することができる、というのが、マルクス、エンゲルスの社会主義経済像であった。そこでは、資本主義と社会主義という体制上の違いがそのまま、「市場」と「計画」という経済調整機構の原理的対立(両者の非両立性)と結び付けられていたと考えることができる。この考え方からすれば、社会主義=計画経済=非市場的経済ととらえられていたとしても、不思議ではない。
計画経済の基本問題
ソ連型の集権的な計画経済制度が成立したのは、(1)以上のような社会主義経済観、(2)革命直後の戦時共産主義の経験と、(3)とりわけ後進国における重工業・国防優先の急速な工業化戦略が資源配分の極度の集中を必要としたという歴史的事情によるものであった。意思決定が高度に集権化され、市場的要素が極度に排除されているのがその特徴であり、その限りで古典の社会主義像に合致しているように思われた。しかしながら、集権型の計画経済は、経済水準が低く、産業構造や産業連関が比較的単純な段階ではまだしも操作可能であるが、経済が高度化し複雑化した段階では、情報処理だけから考えてみても、計画的制御は逆に困難となり、官僚主義的煩瑣(はんさ)化や効率低下といった否定的結果をもたらす。スターリン批判後の経済改革論争のなかで、この点に関してはほぼ完全な同意が得られた。
現実の計画経済において「一つの工場」イメージが成り立たない理由は、次の4点にある。第一は不可知性で、計画当局は全知全能ではなく、経済にはつねにブラックボックス的部分が伴うが、経済の高度化、複雑化につれて、このブラックボックス的部分はむしろ増大する傾向にある。第二はデータ処理技術の不備性で、最新の数理的技法とコンピュータを駆使しても、社会の多様なニーズを盛り込んだ整合的な中央計画作成という課題を解くことはできない。第三は「複雑性」で、経済を構成しているのは、ある単一の目的で統合されたオーケストラやスポーツのチームではなく、それぞれ独自の部分的利益を追求するミクロ経済主体の「連合」であるということである。この点を無視した過剰制御は、利害の背反から、逆に経済の制御可能性を低め、浪費や非効率の源泉となる。第四に、先に触れた資源配分と効率向上という、いかなる体制にも共通する二つの課題を計画化で正しく処理するためには、計画化が正確な社会的労働計算に立脚しなければならないが、現物タームの直接労働計算は不可能であるから、価格的指標の適切な利用が不可欠となる。非市場的経済という古典の社会主義像と反対に、価格、利潤、利子といった市場経済のカテゴリーを計画経済が利用せざるをえない理由は、ここにある。計画経済における周知の浪費と非効率は、以上四つの基本問題に適切な解決が与えられていないことによるものであった。
分権的計画経済の構想
以上のように考えれば、スターリン批判後の論争と経済改革が、意思決定の分権化の問題と並んで、市場機構の利用の問題をもう一つの軸として転回してきたのは、当然というほかはない。分権的計画経済は、国民経済の構造と発展方向を決めるような重要なマクロ経済的意思決定は中央が握りながら、企業の自律性を認め、ミクロ経済活動を中央の決める「ゲームのルール」の枠内で市場にゆだねる構想にたっている。それは、中央計画によるマクロ経済的意思決定の枠組みのなかで、サブシステムとして市場機構を利用しようとするもので、資本主義への体制的接近をただちに意味するものではないとされていた。
伝統的な集権的計画経済モデルと分権モデルとを分かつ境界線は、通常、中央計画を多数の義務的計画指標に分解して企業に下達する指令方式が廃止されるか否か、この指令方式の背骨をなしている生産財の行政的配分制が廃止されるか否か、にあると考えられている。この基準からすれば、ユーゴスラビアはもちろんのこと、ハンガリーも早くから境界線を越えていたが、その他の諸国は部分的分権システムないし緩和された集権制の枠内にとどまっていた。その枠内でも義務的指標の数はしだいに削減され、価格的な指標の利用がより比重を増す方向にあるが、後者は依然前者にリンクされていたのが、1980年代末の体制転換までの顕著な特徴であった。これに反しハンガリーでは、1980年代に開始された経済改革の新しい波のなかで、より市場化を強める方向をとり、他方、社会主義的市場経済といわれるユーゴスラビアでは、下からの協議システムと地方分権化の見返りに計画的制御の弱さが、70年代末から表面化した経済困難のなかで批判の対象となっていた。
混合経済システム
古典的な計画経済の「一つの工場」イメージは、別のことばでいうと、単一の国有・国営経済に無限に接近するのが社会主義計画経済の完成であるという考え方であったが、1980年代にはハンガリーと中国とを先頭にして、これと逆の方向で経済システムを設計しようとする注目すべき動きが進行した。農家レベルの生産責任制で事実上の小農制に移行し、経済特区・開発区を拠点とする大胆な対外開放政策を採用した中国と、ハンガリーとの間の差異は少なくなかったが、共通するのは、公有制を基本としながらも、国有(公有)企業、協同組合企業、小規模集団有企業、私企業といった多様な所有形態と、所有と経営の分離(たとえば公有企業の入札請負制)による多様な経営形態とを組み合わせ、「社会主義型の混合経済体制」を志向する動きであった。そのなかには経済活性化のためにとられた便宜的な方策もあるが、社会主義計画経済の実行可能なシステムが、こうした混合経済システムに収斂(しゅうれん)しつつあることの意味は大きかった。
混合経済体制化で市場社会主義に接近しつつあった1980年代の流れは、論理をつきつめれば「体制転換」を内包(たとえば私的セクターの大胆な拡大の主張)していたが、直接的には1989年の東欧革命による政治体制の大転換で中断された。ソ連型の社会主義では一党制支配と指令的計画経済とは不可分であったから、前者の崩壊は同時に後者の崩壊となった。しかし、それにかわって現代的な制度化された市場経済がただちに生まれるわけではないから、現状は依然、特異な移行期経済である。国により違いは少なくないが、民営化されたといっても擬似私企業、擬似国有企業の比重が依然として高い。こうしたなかで、体制転換初期の自由経済ユーフォリア(陶酔感)にかわり、移行期経済における「政府の役割」を改めて見直す動きが強まっている。
[佐藤経明]
市場
しじょう
目次:
市場
1. 市場の失敗market failure
market 英語
march フランス語
Markt ドイツ語
財・サービスが取引されて価格が決定される場あるいは機構をいう。市場という概念は多様に用いられ、その種類も多い。特定の具体的な場所にある中央卸売市場、証券取引所、商品取引所などは具体的市場とよばれる。俗にマーケットとよばれる小売市場や公設市場も含まれるが、この場合は普通、市場(いちば)とよばれる。また経済の未発達な時代に交換あるいは売買の行われた場所をとくに市(いち)という。
しかし、経済が高度化し、通信技術の進歩や信用取引の発達した現代では、むしろ特定の場所に制約されない抽象的市場が多い。国内市場、国際市場、世界市場という場合がその例である。また、取引対象による生産要素市場と生産物市場、グループ別の金融市場・労働市場などもこの範疇(はんちゅう)に属する。現代では、具体的市場は、国内市場や世界市場などの抽象的市場を背景とし、その影響のもとに具体的な取引を進めているのである。
経済学では、市場の本質的な機能は、財・サービスの供給者と需要者との間の需給関係を反映して価格が形成され、その結果、財・サービスの適正な配分が実現される点にあると考える。
完全競争が行われている生産物市場を考えてみよう。財・サービスに対する需要量がその供給量を上回る(超過需要が存在する)状態のときには、そのような市場の状態を反映して価格は上昇する。逆に供給量が需要量を上回る(超過供給が存在する)ときには、価格は下落する。そして需給が一致するまで現実には取引はなされず、価格は変動する。需給が一致した状態(市場均衡の状態)において、初めて価格は決まり、財・サービスが取引される。このように完全競争においては、価格は財・サービスの需給調整機能を完全に果たしている。
市場の失敗market failure
市場においてこのような需給調整機構がうまく働かない場合を市場の失敗とよぶ。この市場の失敗には、企業の支配力によるケースとそれ以外のケースとがある。第一のケースをみてみよう。現実の市場に目を向けると、自動車、鉄鋼、ビールなどの産業では、少数の企業が市場を支配しており、これらの企業の行動は、市場の価格形成に影響力をもっている。企業が支配力をもっている市場は、その程度に応じて独占、寡占、不完全競争市場とよばれるが、このような市場では、企業の支配力のために、完全競争の場合のように最適な資源配分は達成されず、生産が過少になってしまう。
第二のケースとしては、公共財や外部効果の例があげられる。通常の財である私的財は、消費者がその所有権を手に入れないと消費できない。その所有権を手に入れる場所が市場である。しかし、道路、公園、消防・警察サービスなどの公共財は、その所有権を手に入れなくても消費が可能である。したがって公共財の場合には市場そのものが存在しない。また、外部効果とは、ある消費者や企業が、他の消費者や企業の行動によって、市場での取引を通さないで影響を受けることをいう。この外部効果が存在する場合には、私的便益(費用)が社会的便益(費用)と乖離(かいり)し、効率的な資源配分を達成できない。
このような市場の失敗が生ずる場合には、市場の働きを補整し、社会的に適正な資源配分を実現するために、政府の経済政策による介入が必要となる。
市場論争
しじょうろんそう
目次:
市場論争
polemic on the market 英語
polmique sur les dbouchs フランス語
Polemik ber den Absatzmarkt ドイツ語
市場とは、日常一般には商品が交換され実現されるところをさすが、社会的分業・商品生産が発達してくると特定の場所・建物だけでなく、もっと抽象的・包括的概念として経済学に現れる。市場の形成・発達は微弱な地方分散的市場から始まってしだいに拡大し、広範な国内市場に達する。さらに外国市場を必要とするようになるが、このように資本主義が成立するとともに市場理論も生まれた。
国内市場は資本主義の発展程度に制約され、生産に関しては生産手段と労働力に対する需要としての市場を形成し、個人的消費に関しては労働者と資本家の消費資料に対する需要としての市場を形成する。この両市場のうち、資本主義の発達は、機械制大工業以来とくに生産手段に関する市場を消費資料に関する市場よりも増大させる。この不均等な発展は資本主義を不可能にする(ナロードニキなどの主張)のではなく、資本主義における生産力を発展させ資本主義が歴史的進歩性をもつとともに過渡的形態にすぎないことを示す。市場の理論とは、商品生産・資本主義的生産における商品の実現を取り扱い、資本主義社会全体が素材的に価値的にどのように他の商品で補填(ほてん)される市場をみいだすかを示す理論であり、それは再生産論(実現理論)と同じことになる。
この市場における商品の実現をめぐる論争が19世紀以来おこり、これを市場論争という。商品の実現だから恐慌論争でもある。
19世紀初頭のナポレオン戦争後の1819年前後の過渡的恐慌を背景として、シスモンディ、マルサス対セー、リカード、マカロックのイギリス、フランスを舞台とするいわゆる古典的恐慌論争で市場論争は始まる。
シスモンディは1819年の『経済学新原理』で資本主義的生産の矛盾から当時の恐慌を看取し、資本と所得の区別を強調して資本蓄積における所得拡大の必要の観点にたち、恐慌の原因をもっぱら労働者階級の所得不足(消費資料市場の不足)、過少消費に求めた。マルサスも翌年『経済学原理』で恐慌の原因を不生産階級である地主階級の過少消費に求め、資本蓄積の拡大は不生産的消費による有効需要増大で可能になると説いた。いずれも恐慌論としては過少消費説といわれるものである。これに対してセーは、すでに1803年の『経済学概論』で「販路理論」を展開し、生産物は生産物でのみ買われるから生産物の販路(実現)は他の生産物をつくることでみいだすことができ、販売と購買は均衡しうるとしていた。過剰生産の否定である。だがシスモンディの恐慌認識の批判にあうや、セーはこの論争で販路理論に基づく部分的恐慌を主張する。すなわち、生産部門間の均衡を失うときにのみ部分的恐慌になるとして、一般的恐慌を否定した。もともとシスモンディを最初に批判したのは販路理論によるマカロックで、シスモンディの新原理が出た年になされた。リカードもこの販路理論にたっていた。以上のシスモンディ、マルサスの過少消費説対セーの販路理論は、恐慌を中心に置いた市場の問題についての論争であった。
次は、1837年と47年の恐慌を契機とするドイツでのロートベルトゥス対フォン・キルヒマンの論争である。これは、労働者階級の賃金減少(労働者階級の消費資料需要の減少=市場縮小)を恐慌の直接原因とするロートベルトゥスに対し、分配の不均衡による販路(=市場)の欠乏からの部分的恐慌をいうフォン・キルヒマンの対応であり、先の古典的恐慌論争の過少消費説対販路理論の再版にすぎなかったし、論争内容もむしろ後退したものであった。
第三は、19世紀末のロシアを舞台とし、ナロードニキ、合法マルクス主義者、レーニンの三者間の、ロシア資本主義の発展の可能性をめぐる論争である。ここでは国内市場の形成をめぐる問題や資本主義の支配のもとでの市場問題が中心であった。
さらに20世紀初頭には、カウツキー、R・ルクセンブルク、O・バウアーその他の間での論争、第一次世界大戦後にはブハーリン、グロースマン、シュテルンベルクその他の間での論争があった。これらは恐慌論争でもあり、また資本主義の崩壊をめぐる論争でもあった。
なお、1885年にはマルクスの再生産表式が現れており、第三の論争以降は、いずれの問題に関しても再生産表式をめぐって展開されたものであって、再生産論争としてみることもできる。
[海道勝稔]
Monday, January 26, 2009
生物
デジタル大辞泉
せい‐ぶつ【生物】
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せい‐ぶつ【生物】
動物・植物・微生物など生命をもつものの総称。細胞という単位からなり、自己増殖・刺激反応・成長・物質交代などの生命活動を行うもの。いきもの。
日本大百科全書
生物
せいぶつ
目次:
生物
1. 生物の分類
2. 単細胞生物と多細胞生物
3. 生物相互の関係
無生物と区別される属性、すなわち生命を備えているものをいう。生命は、生物の本質的属性として生命観によって抽象されるものであり、その定義はなかなかむずかしい。人間が昔から生き物としてとらえてきた属性には、物質交代、増殖能力、栄養摂取、成長、刺激反応性、修復(再生、癒傷など)能力などがあるが、そのなかで本質的属性とみられるのは物質交代と増殖である。しかし、ウイルスの本体が明らかになってからは、増殖をもっとも本質的な生物の属性と考える研究者が多い。ただし、増殖はかならず物質交代を伴い、タンパク質の外被に包まれたDNA(デオキシリボ核酸)またはRNA(リボ核酸)でできているウイルスの増殖は、宿主細胞に入ってその生命装置を用いた物質交代のもとで初めて可能となり、宿主細胞から出るとけっして増殖しない。生物は生命の起源以来進化して現在に至ったもので、互いに類縁関係をもつ一元的な自然物であると考える立場からウイルスも生物とされる。しかし、ウイルスは細胞ではなく、バクテリアのようなものから核酸だけが抜け出した、細胞の退化形態のようにも想像されていて、生物の分類上どこに位置づけるかについては定まっていない。
生物の分類
生物は常識的には動物と植物に二大別されているが、動物と植物の両方に同時に分類される生物もあり、無理がある。バクテリアなど単細胞でとくに微小なものを微生物とする動物、植物、微生物の三区分や、動物、植物、菌類、原生生物、モネラの五生物界(五界)に分けることもある。五界説では、細菌類や菌類のような生物は、いわゆる動物や植物と非常にかけ離れていて、その差が動物と植物の差よりも大きいと考え、動物界と植物界のほかにモネラ界と菌類界を設けた。他の一つは原生生物界である。原始的で動物とも植物ともとれる生物をまとめて、E・H・ヘッケルはプロチスタ界を提唱していたが、原生生物界はこのプロチスタ界からモネラを除いたものに等しい。モネラ界は、細胞核を欠くという特徴をもつ原核菌類と藍藻(らんそう)植物がおもな構成生物で、原核生物とよぶ。ウイルスやファージを生物に分類する場合にはモネラ界に入れるのが適当であろう。しかし、原核菌類はDNAとRNAをあわせもっているが、ウイルスやファージは一方のみをもつにすぎない点を重視して、ウイルスとファージでモネラ界をつくり、細菌類、マイコプラズマ、スピロヘータ、放線菌などを原核菌亜界とし、変形菌、細胞粘菌、子嚢 (しのう)菌などの真核菌亜界とあわせて菌界とする分類もある。この分類の場合には地衣界を別に設け、藍藻植物を植物界のなかの原核植物亜界とする。これに対していわゆる五界説では、細胞構造の基本的な違いから、原核生物は他のすべての有核細胞生物と別にされ、その違いは、今日の地球上の生物に認められる最大の進化学的不連続性であるとされる。
単細胞生物と多細胞生物
モネラ、原生生物のほとんどの種類は全生活史を通じて単一の細胞からなる。単細胞でも、ある場合には細胞内に高度な構造分化が生じていて、たとえば繊毛虫類には運動、摂食、消化、排出、感覚などさまざまな細胞器官が分化する。動物、植物、菌類などの個体の体は多数の細胞からなっている。これら多細胞生物には、形や機能の同じ細胞が何種類か集まって特定の機能を営むために組織や器官が分化している。単細胞生物と多細胞生物の中間に細胞群体とよばれる段階がある。これは単細胞生物が寒天質などで包まれて多数が集合したり、共通の柄(え)の上に並んでいるだけで、細胞間に分化はない。なお、多細胞生物が共通の組織でつながっているもの(サンゴ、コケムシ、ある種のホヤ)も群体とよぶ。
生物相互の関係
地球上には少なくとも300万種の生物が生きているといわれ、絶滅した種数もそれに劣らないと考えられている。これらは形態、大きさ、機能などに著しい違いがあり、多様性に富んでいる。これらの生物の間には複雑な関係が成立していて、互いに他の環境となっている。これを生物的環境とよぶ。密接な相互関係の例は、寄生、共生、花粉の媒介でみられ、動物が植物を食べたり、ある種の動物が天敵に捕食されるのはより直接的な相互関係である。炭素循環や窒素循環のように全生物界にまたがる物質循環はこれらに比べると間接的な関係である。一定の地域に共存している生物種の間ではこのようにさまざまな関係を保っているから、どの生物種についても生物的環境の分析に基づいて初めてその機能や生活が理解できる。生物相互の関係は地球環境の変化に伴い変化してきた。また逆に生物が地球の環境にも影響を与えていることも見逃せない。
[川島誠一郎]
文化
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ぶん‐か〔‐クワ〕【文化】
1 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」
2 1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。
3 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」
[用法] 文化・文明――「文化」は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で、世代を通じて伝承されていくものを意味する。◇「文明」は人間の知恵が進み、技術が進歩して、生活が便利に快適になる面に重点がある。◇「文化」と「文明」の使い分けは、「文化」が各時代にわたって広範囲で、精神的所産を重視しているのに対し、「文明」は時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重きを置くというのが一応の目安である。「中国文化」というと古代から現代までだが、「黄河文明」というと古代に黄河流域に発達した文化に限られる。「西洋文化」は古代から現代にいたるヨーロッパ文化をいうが、「西洋文明」は特に西洋近代の機械文明に限っていうことがある。◇「文化」のほうが広く使われ、「文化住宅」「文化生活」「文化包丁」などでは便利・新式の意となる。
文化
ぶんか
目次:
文化
1. 文化とは
2. 文化の起源
3. 文化の構成要素と構造
4. 文化の変化
5. 文化の普遍性と特殊性
6. 日本文化論
漢語としての「文化」は「文治教化」(刑罰や威力を用いないで導き教える)という意味で古くから使われ、文化・文政(ぶんせい)という年号にも使われた。しかし、今日広く使われている「文化」は、ラテン語cultura(耕作・育成を意味する)に由来する英語culture、フランス語culture、ドイツ語Kulturの訳語である。中国でもこの訳語が逆輸入して用いられている。この訳語は通俗的には、たとえば文化住宅、文化的な暮らしという表現のように、近代的、欧米風、便利さを示すことばとして広範に使われてきた。また、これとは別に、学問的な装いを凝らした用法が二つある。第一は、学問、芸術、宗教、道徳のように、主として精神的活動から直接的に生み出されたものを文化という。そこには、少なくとも理念としては、人間の営みを充実向上させるうえで新しい価値を創造するという意味が含まれている。ひと口にいえば、知性や教養ともいえる。この用法は、多くの場合文明と対比して使われ、物的な所産を文明とよぶドイツの思想を受け継いでいる。この用法は、次に述べる第二の用法よりも普及しているし、第二の用法においても、第一の用法の意味が暗黙裏に下敷きとされている場合が多い。第一の用法は普通、個別文化の間に高低・優劣という評価を伴いがちであるが、第二の用法はこうした評価を下さない。すなわち、第二の用法は、あらゆる人間集団がそれぞれもっている生活様式を広く総称して文化とよび、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっているから、個別文化の間には高低・優劣の差がつけられないとする。採集狩猟、定住食糧生産、都市居住者の商工業を営む人々の生活様式にはそれぞれ独自な価値があり、その間に甲乙はないとされる。この第二の用法はイギリス、アメリカなどの文化人類学の主張であり、日本にも第二次世界大戦後に急速に普及した。以下、第二の用法の「文化」を説明する。
文化とは
動物の行動はもっぱら遺伝と本能によって支えられているが、人間は、遺伝と本能に加えて、経験と模倣、および言語を通して、集団の一員としての思考、感情、行動を仲間から学習(習得)し、獲得したものを同世代、後世代の人々に伝達する。こうして集団の一員として学習、伝達されるものが、一つのセットとして統合性をもつ総体を文化と定義できる。たとえば国家、民族、部族、地域、宗教、言語などのレベルで、アメリカ文化、漢族文化、エスキモー文化、オセアニア文化、イスラム文化、ラテン文化などがあげられる。これらの一部分を構成して相対的な独自性をもつものをサブカルチャー(下位文化)という。たとえば、個別文化における農民文化と商人文化、東日本文化と西日本文化、貴族文化と庶民文化などが下位文化の例としてあげられる。
文化の起源
文化をもつのは人類だけであり、動物には文化がないというのが通説であるが、この違いを脳の発達程度から説明することはできない。複雑な道具の製作は人類に限られるとよくいわれるが、人類の原初的形態とされるアウストラロピテクスの脳容量は複雑な道具を製作しない類人猿のそれとほぼ同じだからである。人類と動物の違いを決定的にしたのは直立二足歩行である。直立二足歩行によって、人類の大脳に言語中枢が発生し、神経調整が高度化したので、言語が生まれ、複雑な道具の製作が可能になった。言語は、音声が無秩序に合成されたものではなく、各集団が独自に、特定の音声を特定の規則性に基づいて配列し、それに特定の意味を与えて象徴的に使用するものである。こうした言語の発生が、複雑な記憶を可能にし、思考の抽象化と体系化を可能にした。こうして人類は初めて、学習能力を飛躍的に高め、学習内容を正確かつ広範囲に伝達するようになった。この点に人類と類人猿の違い、ひいては文化の発生を認めるのが通説であるが、これに対して、類人猿にも言語が芽生えているし、文化の萌芽(ほうが)があるとして、これを原文化proto-cultureとよぶ考え方もある。
文化の構成要素と構造
思考、感情、衣、食、住、機械、制度などが一つのセットとして集団の文化が構成されており、これらの構成諸要素は言語、価値、社会、技術の4分野に大別される。各分野はそれぞれ独自の機能と相対的な自律性をもつと同時に、互いに関連をもちつつ補足しあい、一つの全体としてのまとまりをもっている。このうち、独自の機能と自律性をもっとも強く保ち、他分野からの影響をもっとも受けにくいのは言語である(借用語は増えても発音、文法の基礎はきわめて変わりにくい)。価値の分野(道徳、思想、宗教、自然観、価値観など)は人間の内面にかかわり、すべての行動の方向決定を左右する。このような言語と価値を重視した視点から、文化に関する前述の第一の見解が成立してくる。慣習、制度、法律から日常的交際を含む社会関係は、他の分野とのかかわりが大きい。技術は、科学・経済的活動、自然への適応にとって中心的役割を果たし、他の3分野と違って、累積的であることがはっきりしているし、進歩という尺度を当てはめることができる。
各集団はそれぞれ、文化の構成要素を無秩序かつ恣意(しい)的に寄せ集めるのではない。そこには、たとえ個人としては気づかないにせよ、集団の選択意思が働いている。こうした過程のなかで、諸要素は統合され、一つの全体を構成し、結果としては独自性をもつ個別文化が形成される。個別文化を構成する一つ一つの要素は基本的には、全体を構成する部分として機能する。したがって個別文化は、無機物のような集合体でないのはもちろん、価値によって生き方(存続の基盤と方向)を調整する点において、人類以外の有機物とも違うので、超有機的であるともいえる。以上の意味で、文化は統合形態configurationともいわれ、個別文化は独自のパターン(型、類型、範型)をもっており、個別文化は主題themeをもっているということができる。
ある一つの文化要素、または文化諸要素の複合(組合せ)を地域的な広がりとして把握したものが文化領域である。この際、歴史的な生成の過程に対応して文化層を設定して、これと空間的な広がりを重ね合わせたものが文化圏である。文化領域・文化圏はともに、個別文化の内部にも、個別文化を超えてもみいだせる。
文化の変化
個別文化は長期間にわたり、外部的・内部的な調整を経て統合され、独自なパターンを形成したものであるから、固執性をもっており、変化しにくい。しかし、内部諸要素間の矛盾、または外部環境の変化にうまく適応できないで、統合性が弱くなると、別の新しい統合を求めて変化が生じる。民族性も国民性も不変のものではなく、変貌(へんぼう)するものである。
文化諸要素のなかには、直接に知覚し、気づきやすいものと、そうでないものとがある。前者は顕在的文化といわれ、後者は文化の基層部に潜んでいるものであって、隠れた文化とか基層文化といわれる。概して後者のほうが前者よりも変化しにくいので、両者の間に変化する程度にずれが生じやすく、これを「文化のずれ」cultural lagという。たとえば明治以降の日本では、産業や制度は急速に欧米化・近代化の道をたどってきたが、日常生活、家族観、男女観などには古い伝統や因習が強く残っており、そこには大きな「ずれ」がみられる。
文化の変化を引き起こすものは、究極的には当該文化の内部にあるのか外部にあるのか、それは具体的にはなんであるか、という問題は、個別文化の中核にあって統合を規定し、その文化の構造を規定する決定要因を何に求めるかという問題でもある。文化人類学者のなかでは、これをアメリカの人類学者ベネディクトがライト・モチーフ、同じくアメリカの人類学者クラックホーンがエトスとよんで、価値体系ないし精神活動としてとらえている。他方、マルクス主義では、物質的条件、とくに経済行動(下部構造)を決定要因であるとし、生産力と生産諸関係の矛盾からすべての変化が説明される。さらに、文化のなかでの言語・価値の分野を重視して、上部構造である文化は下部構造からの相対的自律性を保つとして、マルクス主義を限定的に解釈する立場もある。これらの論議は多岐にわたり、多かれ少なかれ歴史観、世界観、イデオロギーとも関連しており、定説はないというのが穏当な見解であろう。
文化を主要な研究対象とする文化人類学の学説史をみても、文化変化を引き起こす究極的な要因は十分には説明されていない。関連する学説としては、単系的進化論(文化は世界中どこでも一様な過程を経て進化する)、独立起源説(人間の精神的素質はどこでも本質的には同一であるから、類似した文化がどこにでも独立的に発生する)、伝播(でんぱ)説(文化の発展を促したような主要な発明・発見は地球上の一か所でおこり、それが各地に伝播する。文化圏もその変形)などが批判されたあとに、多線的進化論(各地の条件に応じて特定の文化が各地で別々に進化する)が唱えられた。これらの論議はどれも厳密な論証を欠き、今日の学界はこの論議にあまり関心を示さない。文化人類学界の主流は、個別文化のいっそう精緻(せいち)な実証研究に励み、文化変化の決定要因の一般化にはあまり関心を示さない。
他方、文学や思想の分野においては、実証を伴わない文化論が盛んである。こうしたなかで、文化の決定要因を探る努力はいっそう推進されるべきであろう。
文化の普遍性と特殊性
個別文化は独自性と特殊性をもっていて、諸々の個別文化の間に優劣はないというのが文化相対主義である。確かに、個別文化は他の個別文化にとってかえられない独自性と特殊性をもっている。したがって、その文化自体に即して内在的に理解することが必要である。すなわち、個別文化を構成する諸要素の内容と諸関係を把握するだけではなく、それらが当該個別文化にとって、どのような独自な意味をもっているかを解明しなければならない。ところが、ある現象の固有な意味は、類似の現象にみられる共通な意味との違いを前提にして初めて明らかになる。もともと特殊性と普遍性の関係はそのようなものであって、個別文化の理解には汎(はん)人類的な認識が必要である。
汎人類的なものとして、だれもが人間性(ヒューマニティー)を仮定する。人間性というのは、ホモ・サピエンスのだれもが、幼児期以後に、普通の学習能力をもっている限り、文化によって特徴づけられている社会のなかで育てられるときにもつようになる性質のことである。両性の存在、幼児の無力さ、食と住と性愛という基本的な条件に対応するために、人類は少しずつ異なった(特殊的な)数多くの解答(よしとされ是認された扱い方)を用意している。こうした文化の相対性の底には、すべての文化がもっている基礎的な枠組み(たとえば親族の形態、結婚の規則など)があり、そこに人間性をみいだすことができる。この人間性をもっとも典型的に示すのが近親相姦(そうかん)禁忌(インセスト・タブー)だとされてきた。しかし、この禁忌についても、再検討が進むにつれて、その普遍性を疑問視する説が強まっている。
こうしてみてくると、文化の普遍性に関するわれわれの認識は、文化の特殊性に関する研究に比べてはるかに遅れていることがわかる。文化の普遍性と特殊性という対照的な極限概念は、車の両輪のような不可分離の関係をもっているし、また、文化を理解し分析するうえでつねに意識され追求されているにもかかわらず、十分には使いこなされておらず、期待しているほどの成果があげられていないので、今後の文化論はこの方向に向けていっそうの努力を傾けることになるであろう。その努力を怠るならば、自らの個別文化によって条件づけられている現実存在としてのひとりひとりの人間が、人類的広がりのなかに展開している無数の異文化を理解して、真の相互理解に達することはむずかしいはずである。
日本文化論
こうした見地からみると、日本文化に関する多くの議論もまた、もっぱら日本文化の特殊性の解明に向けられているので、はたして特殊であるかどうかさえ危ぶまれる。かりに特殊性のみを追求するとしても、その方法論には多くの疑問が提出されている。日本文化論のキーワードとしてあげられるのは、タテ社会、甘え、コンセンサスないし調和、集団志向などであるが、どの概念も不正確であって、現象を描写する叙述概念として使われていると同時に、異文化と比較するための変数としての分析概念としても使用されている。また、適切なサンプル抽出の手続を経ないで、恣意的・断片的な実例や体験だけから一般化が試みられている。さらに、「西洋」や「欧米」を十把ひとからげにしたステレオタイプ的なイメージに基づいて、日本の特殊性が説かれている。また、歴史的に考察しないで、不変の「日本的なもの」があるかのように主張されてもいる。こうした根本的な欠陥をもつ日本文化論、ひいては日本人論、日本社会論が、しばしば政界・財界のイデオロギーとしても国内で喧伝(けんでん)されるばかりでなく、国際社会にも輸出されている。これらの批判を踏まえた新しい日本文化論が、主として外国人の日本研究者を中心として展開され始めている。
[鈴木二郎]