Wednesday, January 28, 2009

社会保障

行政国家
ぎょうせいこっか
目次:
行政国家

administrative state 英語
Verwaltungstaat ドイツ語

立法府である議会、司法府である裁判所に対して、行政府が相対的な優越性をもつ国家類型。立法国家、司法国家に対比して用いられる概念である。
 類型的に理解された19世紀段階の国家の役割は、市民社会の自律的運行の秩序を外在的に保障するものとして、しかも、そこでの国家統治の重心は立法機能にあり、行政機能は必要最小限にとどまるべきであると考えられていた。消極国家、夜警国家、立法国家などと称されるゆえんである。しかし、その後の資本主義社会の諸矛盾、たとえば不況、失業、生活困窮などの社会問題の発生は、市民社会に対する国家の積極的介入を必然的なものとし、20世紀段階の現代国家においては、国家機能、とりわけ行政機能の拡大・強化の現象が顕著となった。現代行政は、国民生活と広範かつ密接に関係し、また、行政計画、委任立法、通達、行政裁量、行政指導等による行政の増大、行政官僚制の発達、および他方における議会の立法機能の弱体化・形骸(けいがい)化などにより、行政府は国家政策の形成・決定において実質上中心的な地位を占めるに至った。このような行政権優位の現象がみられる現代国家を、政治学的・行政学的には行政国家と性格づけることができる。
 法律学上の概念としての行政国家とは、私法とは異質の、行政に特殊固有の法の体系としての行政法をもち、行政に係る争訟に通常の司法裁判所の管轄を排除する特別な行政裁判所制度をもっている国家をいう。その具体的形態は、時代により国により異なるところがあるが、ドイツ、フランスなどがその例である。
 わが国の現行憲法は、かつての行政裁判所制度を廃止し、行政訴訟事件も通常の司法裁判所に係属することとしたので、戦後日本は、法律学的意味においては、行政国家から司法国家に転換したといえる。しかし、政治学的意味における行政国家化の現象も顕著である。
[三橋良士明]

日本大百科全書
社会保障
しゃかいほしょう
目次:
社会保障
1. 欧米の社会保障の歴史
2. 日本の社会保障の歴史
■ 前史
■ 社会保険の制定
■ 国民皆保険体制
■ 社会福祉理念の具体化
■ 社会保障熟成・変容期
■ 社会保障制度改革
■ 高齢者介護問題
3. 現況・課題

social security

現代資本主義が生み出す貧困・生活不安などの生活問題に対して、国民生活を保障することを通して、国内・国外の社会主義に対抗しつつ現代資本主義国家を維持し、延命を図ることを目的とした生活保障政策をいう。社会保障という用語は、1933年アメリカ合衆国で経済保障あるいは所得保障にかわるものとして造語されたもので、それが35年社会保障法として初めて公用語として使用された。しかしその内容は、ヨーロッパ諸国の制度に追いつこうとしたものにすぎない。社会保障は、W・チャーチルの有名なことばを借りれば、「揺り籠(かご)から墓場まで」の国民生活を保障するものである。国民の生活は、失業、労働災害、傷病、老齢などの生活上の事故で所得が中断または永久に失われたり、支出が増大したりして、脅かされたり破壊されたりする。子供の誕生と養育とで支出が増加したりもする。また、年齢が若かったり逆に年をとりすぎていたり、また心身に障害があったりして、家庭生活を1 人ないしは家族でできない場合もある。こうした事態に対する国家による個人または世帯単位での国民生活の保障策の総称を社会保障という。
 以上のことと現代日本の国民生活の現状とをあわせ、社会保障のライフ・サイクルごとの必要度をまとめると以下のようになる。
〔1〕幼年人口期(0歳以上15歳未満)の所得と家事の保障の必要度は、両親による扶養が当然なので、きわめてまれである。医療保障は、生涯を通じて不断に必要であり、その必要度はライフ・サイクルごとに大きな違いがある。施設出産が98%である今日、誕生時と直後の必要度は絶対的である。その後15歳前後をボトムに、加齢とともに高まる。
〔2〕生産年齢人口(15歳以上65歳未満)の所得保障の必要度は、雇用状況に影響される。完全雇用状態であれば必要度は小さい。2001年(平成13)以降、雇用不安状況にあり、高くなっている。医療と家事の必要度は、健康と家族環境に左右される。
〔3〕老齢人口期(65歳以上)の所得保障の必要度は、当然のこととして絶対的に高くなる。医療と家事の必要度は、身体状況と家族環境により決定され、しだいに高くなる。とくに医療は「畳の上では死ねない」といわれるように、病院で病名がついて死ぬのが今日の死に方であり、医療はまた絶対的に必要となってくるのである。
 こうして社会保障は、国民の生活を保障するため、まず健康を守るために医療を、ついで消費生活のために所得を、そして身の回りの世話のために家事を保障する。医療の保障は、日本を含め大多数の国における医療保険体系と、医療サービス体系とがある。医療保険体系は複雑で、(1)中核である医療保険、(2)医療保険を補完する各種医療保障制度、(3)最終的手段としての公的扶助による医療扶助、(4)業務上の傷病に対する労働者災害補償保険によって行われる。これに対して、医療サービス体系は、医療機関を公営化し、医療そのものを無償とするものである。イギリスなど8か国が実施している。医療保険の制度的限界を超えたものである。
 所得の保障にも2通りある。
〔1〕所得そのものの直接保障。所得保障の中核で、失業保険、医療保険の傷病手当金、年金保険などの社会保険、家族手当、公的扶助による生活扶助などがある。これらのうち中軸は年金保険で、最終的手段が生活扶助である
〔2〕所得補償。失われた労働能力に対する損失補償で、労働者災害補償保険で行う。家事の保障は、社会福祉と、一部を例外的に公的扶助で行う。
 このように社会保障は、(1)失業保険、労働者災害補償保険、医療保険、年金保険などの社会保険(医療に関しては医療サービス)、(2)家族手当、(3)公的扶助、(4)社会福祉の四本柱で構成されている。
欧米の社会保障の歴史


 社会保障が成立するためには、貧困を資本主義社会の社会的・必然的な産物としてとらえ、国家の責任で貧困対策を行うことが前提となる。社会保障前史である資本主義社会の成立期(15世紀末~1760年代)と確立期(1760年代~1870年代)にあっては、貧困は、個人の努力の不足、怠惰の招いたもので、「自然の刑罰」であると考えられ、貧困は個人の責任であるとされていた。これでは貧困対策は、国家的対策として実施される可能性はなかった。1531年以降イギリスで行われてきた救貧法は、「自然の刑罰」の執行人といったもので、労働能力非所有者であわせて家事能力非所有者である子供、老人、障害者、病弱者のみを対象とした社会保障前史に属するものである。西欧の先進資本主義諸国は、1873年の経済恐慌をきっかけとして20年余にもわたる慢性不況にみまわれた。慢性不況は、大量かつ長期の失業者を生み出した。さいわいに失業の憂き目にあわず雇用されていた労働者も、失業者の存在が重圧となって低賃金や劣悪な労働条件を押し付けられた。これらの結果、当然、貧困者は増大した。失業は「社会の疾病」と考えられるようになった。失業による貧困が一般化すると、貧困は、それまでのように個人の責任ではなく社会の責任であると理解されるようになった。こうして、国家は貧困に関して責任を問われるようになり、貧困対策は国家の責任となった。
 社会保障は、社会政策としてドイツで始められた。社会政策の中心は社会保険であり、1883年に疾病保険法、84年に災害保険法、89年に廃疾・老齢保険法が成立した。これらは「ビスマルクの社会政策三部作」とよばれた。それは慢性不況に伴う社会主義勢力の台頭に対する弾圧策=「ムチ」に対し、労働者階級の懐柔策としての「アメ」であった。慢性不況は、失業者という労働能力所有者ではあるが無所得者を生み出した。国家は、労働運動の激化に対処するために失業者を救済せざるをえなかった。そこで救貧法を所得保障策=公的扶助と家事保障策(あわせて所得保障策も行う)=社会事業とに発展的に解消することが求められた。
 貧困が社会的要因によるものであり、国家は公的に貧困者を保障する責任と義務があると考えられるようになると、貧困者には保障請求権があると了解されるようになり、しだいに公的扶助が確立した。こうして救貧法は公的扶助へと前進し、1891年、最初の公的扶助がデンマークで誕生した。さらに、貧困者対策の一翼を担うものとして家事保障策に特化していく社会事業も発足した。残された失業保険は、1911年、イギリスのロイド・ジョージの国民保険第二部として誕生した。26年には家族手当がニュージーランドで始められた。このように対労働者対策の社会保険と家族手当、貧困者対策の公的扶助、社会事業とに分かれていたこれらの制度は、29年に始まった世界恐慌をきっかけに第二次世界大戦中および戦後を通して、国民すべての生活を等しく守る社会保障へと発展したのである。
 社会保障への前進には、貧困要因の変化が必要であった。社会保障は、失業、不規則労働、低賃金という「都市型貧困」には基本的に対処できない。これらに対応できるのは労働政策である雇用政策、最低賃金政策である。社会保障の確立には、貧困要因が病気、老齢という「身体的要因」へ移行することが不可欠である。この変遷は、第二次世界大戦終了後初めてS・ロウントリイによって証明された。また、社会保障の成立には積極的財政政策を可能とする金本位制にかわる管理通貨制の採用が必要であった。この導入は1930年代に行われていた。社会保障への転身には、これら経済的要因に加えて政治的な要因も必要であった。46年から始まった冷戦体制に基づく体制優位競争が、政治的要因をもたらした。資本主義諸国は、社会主義の理念である結果の平等を社会保障の実施で達成しようとしたのである。
 現代資本主義社会において、組織的な社会保障が政策課題となったのは第二次世界大戦後のことである。高度経済成長のもとで完全雇用状態が出現し、被用者の生活安定が雇用の保障とともに達成されるようになった。ついで、社会保障によって労働能力をもたないものの生活が保障されるようになったのである。社会保障は、まず公的扶助を中心に貧困対策として展開された。ついで、高度経済成長とともに貧困は解決され、社会保障の中核は医療保険による健康保障に移り、国民の健康が維持されて長寿が一般化する。そのため、人口の高齢化とともに年金保険が社会保障の主役となる。こうして社会保障は、年金保険による所得保障、医療保険による健康保障、それに老人福祉による家事保障が三位一体となり、老齢者の生活保障策として展開されるようになる。このように高齢化社会においては社会保障が最重点政策課題となるのである。
日本の社会保障の歴史


前史


 日本の社会保障の前史は、1874年(明治7)の恤救(じゅっきゅう)規則に始まる。恤救規則は、きわめて制限的に実施され、救済率は低く(全実施期間の救済率は0.3%)、国民生活を保障するものではなかった。日本は第一次世界大戦下において未曽有 (みぞう)の好況を経験した。しかしその間、国民の生活は好況に伴う物価高騰、とくに米価の騰貴のため窮乏化し、社会不安を増大させた。1918年(大正 7)には米騒動が勃発(ぼっぱつ)し、初めて貧困問題が日本資本主義を根底から揺り動かし、労働運動もロシア革命の影響を受けて闘争主義的傾向を強めた。 20年には第一次世界大戦の反動で「戦後恐慌」に襲われた。この反動恐慌後、日本経済は「二三年恐慌」、「金融恐慌」(1927)、「昭和恐慌」(1930)と不況から不況へとよろめき歩き、慢性不況の過程をたどった。慢性不況に伴った失業問題、農業問題は、放置しがたい深刻さを加えていった。
社会保険の制定


 こうしたなかで1922年、日本最初の社会保険法である健康保険法が制定され、24年施行予定であった。しかし、関東大震災のため準備が遅れて27年(昭和2)施行となった。健康保険は、ブルーカラーのみを対象としホワイトカラーを排除していた。慢性不況は恤救規則では対処しきれない貧困問題を生み出した。29年救護法が制定され、30年施行予定であった。しかし、内閣が交替し政策がかわり、施行は無期延期となってしまった。「天皇の赤子(国民のこと)をして飢えしむるなかれ」という天皇制国家の理念を逆手にとった民生委員の前身である方面委員、社会事業関係者を中心とした救護法実施期成同盟の運動により、ようやく32年施行となった。慢性不況は農業恐慌という形もとり、農民の生活をも破壊した。そこで38年に貧困と疾病との悪循環を断ち切るために農民保険として国民健康保険法を制定、実施した。39年には国防上の海運政策から船員保険法が制定され、翌年から実施された。船員保険は医療保険部門と日本最初の年金保険部門からなっていた。船員保険の年金保険部門をきっかけに陸上労働者のための労働者年金保険法が41年に制定され、翌年から実施された。労働者年金保険は軍需インフレ防止のための国民の購買力の封鎖減殺と、労働者移動防止対策いわゆる労働者の足止め策として設けられ、労働者の老後生活保障のためではなかった(一部でまだ主張されている戦費調達のためでもない)。44年には制度改正とともに時局に調和した名称、厚生年金保険法に改められた。
 社会保障は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が行った一連の民主化政策の一環として発足した。被占領期の社会保障はまず、1946年(昭和21)制定・施行の生活保護法(旧)である。救護法にとってかわった軍事扶助法を中心とした戦時社会政策は、非軍事化・民主化という占領政策に反していたからである。さらにその後、社会経済状況の変化に対応して50年に現行の生活保護法にとってかわられた。ついで、失業保険法、労働者災害補償保険法が47年に制定、実施された。失業保険はまったくの新顔であり、労働者災害補償は健康保険、厚生年金保険が代替していた。これで日本の社会保険は、失業保険、労働者災害補償保険、医療保険、年金保険からなる形の整ったものとなった。これに、生活保護の特別法という性格をもち生活保護を補完する緊急対策である児童福祉法(1947年制定、翌年施行)、身体障害者福祉法(1949年制定、翌年施行)が加わる。
国民皆保険体制


 日本経済の1955年から73年までの高度成長は、完全雇用を達成して日本を「豊かな社会」にした反面、ひずみも生み出した。社会保障の第2期である。56年になると国民各階層間の所得格差の是正が問題となり、中小企業の福利厚生施設の不足、社会保険の未適用など社会保障の不備が指摘されるようになった。58年国民健康保険法は改正され、翌年から施行され、61年から完全実施となり「国民皆保険」体制となった。農民保険として発足した国民健康保険は、新たな普及対象が都市の中小企業労働者であったことの結果、都市の中小企業労働者向けの都市保険に変身したのであった。59年には国民皆保険体制を必要とした要件に、次の要因が加わって国民年金法が制定された。国民年金は、まず当面の課題である老齢者、母子世帯、身体障害者などに対する所得保障策としてと、地方公共団体の「敬老年金」の国策化要望にこたえるためであり、これには福祉年金がこたえた。次に、年金保険未加入者対策と人口の老齢化対策が求められ、これには拠出制国民年金がこたえた。保険料負担のない無拠出制国民年金(福祉年金)が59年に実施され、61年に拠出制国民年金が実施されて、「国民皆年金」体制への道を歩み始めた。受給資格に保険料負担実績を問わない医療保険は、実施とともに給付体制が確立する。これに対し、保険料負担実績を問題とする年金保険は、給付体制が実現化するのに何十年もかかる。「国民皆保険」体制は発足と同時に達成したが、「国民皆年金」体制の確立は1980年代に入ってからであった。
社会福祉理念の具体化


 1960年代前半には所得格差というひずみへの対策のほかに、積極的社会福祉理念の具体化が求められた。これにこたえたのが精神薄弱者福祉法(1960年制定、施行)、老人福祉法(1963年制定、施行)、母子福祉法(1964年制定、施行)、母子保健法(1965年制定、翌年施行)、心身障害者対策基本法(1970年制定・施行)などである。これらのうち老人福祉法は、世界最初の老人に対する単独独立福祉立法である。71年には、日本の社会保障制度中ただ一つ欠けていた家族手当が、児童手当法という法律名で制度化され、翌年から施行された。これにより日本の社会保障は、西欧並みの社会保険、家族手当、公的扶助、社会福祉の四本柱で構成されるものとなった。児童手当法を制定させた要因は、消費者物価の上昇、賃金構造の変化、教育費と養育期間の増大などである。高度経済成長期の社会保障制度の新設・改正の動きは以上のようであるが、これに、改正年はオイル・ショック後の低成長経済期の74年(施行は翌年)にずれ込んではいるが、高度経済成長期的視点の制度改正である失業保険の全面改正による雇用保険法が付け加えられる。
社会保障熟成・変容期


 日本の社会保障は1970年代になると充実しだし、政府は「福祉国家」を標榜(ひょうぼう)し始め、73年度の予算編成にあたって73年を「福祉元年」と宣言し、財政政策の一つに国民福祉の向上を取り上げた。福祉元年の内容の第一は、71年から始まった拠出制国民年金の「10年年金」の給付開始である。第二は、72年からの児童手当の給付開始である。第三は、73年からの老人医療費支給制度の発足である。これは70歳以上の老人の自己負担分を国・地方公共団体などが肩代り負担するものである。一般に「老人医療の無料化」といった。第四は、健康保険の給付の改善、保険財政の健全化である。給付の改善の中心は、家族給付率の5割から7割への引上げと、高額療養費支給制度の新設である。保険財政の健全化は、政府管掌健康保険(以下、政管健保)における83年度末までの累積収支不足額(約3033億円)の棚上げと、政管健保についての定率10%国庫負担の新設などである。第五は、73年の年金保険の改正による「5万円年金」の実現と物価スライド制の導入である。これによりこの年は「年金の年」ともいわれた。
 1973年秋に始まった第一次オイル・ショックは、あらゆる社会的、経済的事象をさま変わりさせ、日本経済は低成長期に入った。ただし、完全雇用状態は維持され続けた。順調な経済成長のもとで質的、量的に拡充・成熟してきた社会保障は、経済成長の鈍化とともに変容を迫られた。政府の社会保障に対する態度は一変した。社会保障は、「社会的不公平の是正」策というプラス・シンボルから「金食い虫」というマイナス・シンボルへと転落した。73年の「福祉元年」の「成長否定・福祉優先」政策による福祉国家志向から、75年の「福祉見直し論」の出現、さらに80年代初めの「自助努力論」の流行と、社会保障をめぐる世論も目まぐるしく変わった。こうして社会保障政策は、「財政危機」を回避するための国庫負担の軽減、国民負担の増大を求めるものに変わってきた。
社会保障制度改革


  1980年代前半、日本も欧米先進資本主義諸国に後れて社会保障の制度改革に取り組まなければならなくなった。その要因の第一は、高度経済成長期に体系が形づくられた社会保障制度、なかでも年金保険の成熟化に伴う社会保障関係総費用の増大である。第二は、オイル・ショックに基づく労働力需給の頭打ちと失業者の増大による被用者社会保険の被保険者数の増加の鈍化、賃金上昇の低迷による保険料収入の伸び悩み、高度経済成長期に決定した給付水準が財政的に重荷になってきたことなどである。第三は、社会保障の充実が国庫負担の比率を伸ばす方向で行われてきたことである。第四は、これらの結果としての一般会計予算に占める社会保障関係費の拡大である。第五は、国庫負担をまかなう歳入の中核である租税がやはり経済成長の鈍化に伴い伸び悩み、赤字国債への依存度を上昇させて、財政赤字を顕在化させたことである。第六は、社会保障、とくに年金保険、老人福祉の与件である人口の老齢化の進行である。第七は、医療保障の与件となる医学の進歩に伴う医療技術の高度化、高額医療機器の普及、医薬品の高額化などによる医療費の高騰である。これには人口の高齢化による有病率の上昇、疾病の慢性化、疾病構造の変化なども付け加えられる。
 これらの諸要因と、高度経済成長に基づく産業構造の変化が生み出した就業構造の近代化と高度化=第二次・第三次産業就業者の増大と被用者比率の上昇とが、1980年代前半において一連の社会保障の制度改革を求め、実施に移されている。改革の第一段階は、これまでの日本の社会保障の中核で費用の大半を占めていた医療保険を中心とした医療保障分野で行われた。73年に始まった老人医療費支給制度は、医療保険の自己負担分の公費肩代りにすぎないものを厚生省(現厚生労働省)が「老人医療の無料化」としたため老人医療費の急増を招き、国庫負担を増大させた。そこで、82年、老人保健法を制定し、各医療保険保険者にも費用を負担させ、国庫負担減を図ることにした。さらに、84年からは被用者医療保険本人の給付を1割自己負担とし、受診の抑制を図り医療費の伸び率を押し下げることにした。また、退職者医療制度を創設し、被用者医療保険にも費用負担させ、国民健康保険と国庫負担の軽減をねらい、負担の公平化を図ることにした。
 第二段階は年金保険の改革である。年金保険の費用は、年金保険の成熟と老人人口の増加により必然的に急増し、国庫負担も巨額なものとなる。国民年金は、産業構造の変化に伴う就業構造の近代化と高度化により新たな加入者の増加は望めず、制度存立の基盤が不安定となることは避けられない。ほかの年金保険においても制度の安定的運営が困難なものもある。そこで、公的年金保険を長期にわたり健全かつ安定的に運営していくために制度体系の大幅な再編成を行うことにし、1986年から実施した。その内容は、国民年金を全国民共通の基礎年金を支給する制度とし、財源は厚生年金保険加入者を中核に加入者全体で公平に負担していく。基礎年金の導入により女性の年金保障の確立(ただし基礎年金だけ)、世帯類型に応じた給付水準の適正化を図る。さらに、将来の制度の成熟化を考慮に入れて、給付水準の適正化を行い保険料負担の軽減を図り、最終的に国庫負担を削減する、といったものである。
 第三段階は児童手当である。1985年に制度改正を行い、支給対象児童をこれまでの「第3子以降中学校卒業まで」を「第2子以降義務教育就学前」に、86年度から88年度にかけて段階的に移行していくこととした。
 第四段階は生活保護である。その第一は、生活保護基準の算定方式を一般勤労者の所得水準に近づける「格差縮小方式」から、一般国民の消費水準の向上にあわせて定める格差維持の「水準均衡方式」に1984年度から改めたことである。その第二は生活保護費の国庫負担の一部地方公共団体への転嫁である。国8割、地方2割の負担を、85年度から国7割、地方3割とした。
 第五段階は社会福祉である。1980年代以降、社会福祉は、施設収容から在宅福祉へ、社会福祉サービスの原則無料から有料へ、公的サービスの民間サービスによる部分的肩代りへといった動きをみせている。
  1980年代前半の「財政危機」と高齢化社会に対応する社会保障の制度改革に共通して認められたのは、国庫負担の軽減化と、これと引き換えの国民負担の増大である。この結果、社会保障から国家が後退し、社会保障の私的保障化が進められることになった。その後、1989年(平成1)策定の「高齢者保健福祉推進十か年戦略」(ゴールドプラン)で、三位一体の老齢者の生活保障を主眼とした社会保障が展開されるようになったのである。94年には、高齢者介護対策の充実を図るためゴールドプランを見直した「新ゴールドプラン」、さらに子育てを社会的に支援していくための「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について」(エンゼルプラン)が策定された。
高齢者介護問題


 1990年代なかばになると、高齢者介護問題が老後の不安要素となった。要因の一つは、急速な高齢化の進展に伴う寝たきり、認知症の老人の増加である。二つめは、核家族化、女性の職場進出の長期化による家族の介護機能の低下である。高齢者介護は、これまで老人福祉と老人保健で行われていた。利用手続、利用者負担の不均衡、それに老人保健にみられた「社会的入院」の経費増大が問題とされた。そこで、両制度を再編成し、介護サービスを総合的に利用できるようにし、老人保健の財政負担の軽減を図ることとした。1997年12月、オランダ、ドイツに続いて世界3番目の介護を目的とした単独立法である介護保険法を制定し、2000年4月から施行した。また1999年12月には「新ゴールドプラン」後の施策として、介護サービス基盤の整備、認知症高齢者支援対策の推進などを目ざす「ゴールドプラン21」を策定、2000年度には介護保険を円滑に実施するための「介護予防・生活支援事業」が創設された。
現況・課題


  1990年代以降の社会保障は、91年2月のバブル経済の破綻(はたん)、12月のソ連崩壊で新しい歩みを始めた。失業の再登場と社会保障発展の政治的促進要件の喪失とが、ともに出現したのである。失業問題は、労働者の生存条件を否定し、国民生活の安定を欠かせた。また社会保障の大前提をなきものにした。ソ連の崩壊は、結果の平等を求める力を失わせた。社会保障は、1980年代前半からなかばにかけての「制度改革」以降の縮小再生産の傾向をますます強めている。
 完全失業率は、安全水準と考えられていた3%を、1994年橋本内閣のときに超え、98年の小渕(おぶち)内閣時には4%を、2001年の小泉内閣時には5%を上回った。この結果、被用者社会保険適用者数は、1997年度をピークに以後微減傾向にある。完全失業率の上昇は、当然のこととして賃金水準の低下を生み出す。被用者社会保険平均標準報酬月額はやはりこの影響を受け、97年度をピークに以後逓減傾向を示している。これらの要件が重なり合って、被用者社会保険保険料は、99年度から減少している。高齢化、失業などによる社会保障給付費の増大に反する保険料収入の逓減傾向は、社会保障財政悪化の大きな要因となっている。
 社会保障給付費は、1970年度3兆5239億円、80年度24兆7336億円、90年度47兆2203億円、2000年度78兆1272億円と年々増加している。また対国民所得比も、70年度5.77、80年度12.41、90年度13.45、2000年度20.53と増加している。社会保障給付費の部門別推移は、70年度医療部門58.9%、年金部門24.3%、社会福祉その他16.8%だったが、高齢化、年金保険の成熟などにより、81年度年金部門が43.7%を占め、これまで首位の座を占め続けていた医療部門41.8%を初めて超えた。以後「年金」と「医療」の構成割合の格差は広がり続け、90年度年金50.9%、医療38.9%、福祉その他10.2%、2000年度は年金52.7%、医療33.3%、福祉その他14%の構成比となっている。また高齢者関係給付費は73年度1兆5641億円(社会保障給付費に占める割合25%)、80年度10兆7514億円(同43.4%)、90年度27兆 9262億円(同59.1%)、2000年度53兆1982億円(同68.1%)と著しく増加している。
 現代日本の社会保障は、ライフ・サイクルごとの社会保障の必要度と高齢化を反映して高齢者世帯の生活保障策となっている。年金・恩給はもちろん、医療も高齢者が最大の受給者である。一般世帯で子供である生産年齢人口が費用を負担し、老親である高齢者世帯の生活を保障している。高齢者世帯は直接的受給者、一般世帯は間接的受給者となり、社会保障は2世代にわたる生活保障策となっている。
 中央一般会計歳出決算(目的別)に占める社会保障関係費は、若干の年度を除くと、1975年度以降、地方財政費、国土保全および開発費をおさえトップである(恩給費を加えると、やはり若干の年度を除くが、20年も早い1955年度以降第1位である)。このことは社会保障を不可欠とする現代資本主義国家=福祉国家の様相を日本も示していることを意味している。
 現在の日本の社会保障は、2020年代に迎える人口高齢化のピークに対処する制度づくりを模索している。それは、一方において経済成長の停滞と人口の高齢化のいっそうの進行による社会保障財政の逼迫(ひっぱく)の恐れと、他方における社会保障に対する国民の期待の増大のなかにあっての社会保障のあり方の検討である。年金保険においては、厚生年金の支給開始年齢が60歳から65歳に引き上げられることになった。高齢者介護については、前述したように1997年に介護保険法が成立した。医療保障では、制度間の負担と給付の一元化の問題がある。つぎに問題とされるのは、医療保障と社会福祉(具体的には老人福祉)との総合化とネット・ワークづくりである。医療・福祉サービスの連携は、介護サービス・ネットワークとよばれ、介護サービス、医療・保健・看護サービスの総合システム化をさらに進めた横断的有機的な連携組織のことである。
 具体的な社会保障の課題としては、高齢化のピーク期においても安定した年金保険の構築、地域のニーズに即応した効率的な保健医療福祉システムの確立、寝たきり老人などに対する介護対策の充実、次代を担う児童の健全育成などがあげられる。
[横山和彦]


社会保障・福祉年表(日本)
年代 内容
1870 種痘の普及法を府藩県に達す
1871 京都府、窮民授産所を設立
1872 フランス人ラクロット女史が横浜に和仏学校設立、育児事業を開始(育児院の初め)
1874 東京市、日本橋に司薬場設置(国立医薬品食品衛生研究所の前身)
1875 盲人の保護、教導のための楽善会を組織。「海軍退隠令」によって恩給制度が発足
1876 金禄公債証書発行条例制定(華族に支給)。陸軍恩給令制定
1878 フランス人が函館元町に孤児院開設(のち白百合学園となる)
1879 高松凌雲らが貧民救療のための同愛社を開く(同愛病院の起こり)
1880 楽善会経営の東京訓盲院(後の官立東京盲唖学校、現在の筑波大学附属盲学校・同聾学校)業務開始(視覚障害教育、聴覚障害教育)
1881 貧民救療費支弁法を制定(地方財政への負担の転嫁)
1883 海軍退隠令廃止、海軍恩給令制定
1884 官吏恩給令制定
1885 種痘規則制定(天然痘予防規則等廃止)
1886 国際赤十字条約(ジュネーブ条約)加入
1887 博愛社を日本赤十字社と改称
1888 フランスの制度にならった大日本監獄協会設立(のちの矯正協会)
1897 伝染病予防法公布(8種の伝染病の指定、各地の衛生組合を法制化)
1899 罹災救助基金法公布
1922 健康保険法制定(社会保険)
1923 恩給法制定(陸軍恩給令、海軍恩給令、官吏恩給令を統合)
1929 救護法(救貧法)制定
1938 国民健康保険法(旧)制定
1939 職員健康保険法、船員保険法制定
1941 労働者年金保険法制定
1943 年金保険厚生団(現厚生年金事業振興団)設立
1944 厚生年金保険法(旧)制定
1946 生活保護法(旧)制定(公的扶助)
1947 労働者災害補償保険法、失業保険法、児童福祉法制定
1948 社会保障制度審議会設置法制定
1949 身体障害者福祉法制定
1950 生活保護法制定
1953 日雇労働者健康保険法、私立学校教職員共済組合法制定
1954 厚生年金保険法制定
1956 公共企業団体職員等共済組合法制定
1958 農林漁業団体職員共済組合法、国家公務員共済組合法、国民健康保険法制定
1959 国民年金法制定
1960 精神薄弱者福祉法(1998年知的障害者福祉法に名称変更)制定
1961 通算年金通則法、児童扶養手当法制定
1962 地方公務員等共済組合法制定。社会保険庁設置。適格退職年金制度導入(企業年金)
1963 老人福祉法制定
1964 母子及び寡婦福祉法制定(母子福祉)
1966 厚生年金基金制度導入
1967 地方公務員災害補償法制定
1970 農業者年金基金法制定
1971 児童手当法制定
1973 年金法大改正。70歳以上の老人医療費無料化
1974 失業保険法廃止、雇用保険法制定
1977 社会保障の最低基準に関する条約(国際労働機関(ILO)102号条約)批准、効力発生
1978 ショートステイ(老人短期入所生活介護)事業創設
1979 デイ・サービス(日帰り介護)事業創設
1982 老人保健法公布(70歳以上の医療無料制廃止)
1984 健康保険法改正。退職者医療制度創設
1985 国民年金法改正。年金一元化・基礎年金導入。船員保険を厚生年金保険に統合。社会福祉・医療事業団(現福祉医療機構)設立
1986 年金福祉事業団法及び国民年金法等改正。年金積立金の事業団による運用開始。老人福祉法改正(ショートステイ、デイ・サービスの法定化。老人保健施設の創設)
1987 労働基準法改正(法定労働時間の短縮、労働時間規制の弾力化等)。社会福祉士・介護福祉士法制定
1988 児童扶養手当法等改正
1989 雇用保険法及び労働保険料の徴収等に関する法律改正。ゴールドプラン(高齢者保健福祉推進十か年戦略)策定。在宅介護支援センター、介護利用型軽費老人ホーム(ケアハウス)創設
1990 老人福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法(1998年知的障害者福祉法に名称変更)、児童福祉法、母子及び寡婦福祉法、社会福祉事業法(2000年社会福祉法に名称変更)、老人保健法、社会福祉・医療事業団法の八つの社会福祉関係法令(福祉八法)改正
1991 老人訪問看護制度創設
1993 雇用審議会(大内力会長)、60歳定年の義務づけ、65歳までの継続雇用を促進するなどの答申をまとめる
1994 国民年金法等改正法成立。老齢厚生年金の定額部分の支給開始年齢の65歳への引上げ、保険料率の段階的な引上げ、標準報酬月額の上・下限の改定、ボーナス保険料制の導入など。新ゴールドプラン(新高齢者保健福祉推進十か年戦略)、エンゼルプラン(今後の子育て支援のための施策の基本的方向について)策定
1995 精神保健福祉法(精神障害者に対する福祉施設の充実を図る)改正。高齢社会対策基本法制定。介護休業制度法制化
1997 児童の個性・親の就労状況に合わせ保育所を選べるように児童福祉法を改正。介護保険法制定。基礎年金番号制度導入。痴呆性老人グループホーム(現認知症高齢者グループホーム)創設。日本鉄道共済組合(JR共済)、日本たばこ産業共済組合(JT共済)、日本電信電話共済組合(NTT共済)の3共済組合が厚生年金保険に統合
1999 ゴールドプラン21(今後5か年間の高齢者保健福祉施策)、新エンゼルプラン(重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画について)策定。介護休業義務化
2000 介護保険法施行。国民年金法等改正法成立。厚生年金の報酬比例部分の給付水準の適正化、老齢厚生年金の報酬比例部分の支給開始年齢の65歳への引上げ、国民年金保険料の半額免除制度の創設
2001 年金資金運用基金設立に伴い年金福祉事業団解散。確定拠出年金法、確定給付企業年金法制定(企業年金)。ハンセン病療養所入所者等に対する補償金支給法制定
2002 農林漁業団体職員共済組合が厚生年金保険に統合。ホームレス自立支援法成立
2003 社会福祉・医療事業団が独立行政法人福祉医療機構となる
2004 厚生労働省、「痴呆」にかわることばとして行政用語では「認知症」を使用、一般的な用語でも変更を求める通知を行う
2005 発達障害者支援法施行。特別障害給付金制度の創設
2006 障害者自立支援法施行、高齢者虐待防止法が施行。介護保険法を改正
2007 社会保険庁の年金記録問題、同庁および自治体の年金横領問題が表面化

社会保障・福祉年表(世界)
年代 内容
1883 疾病保険法成立(ドイツ)(医療保険、社会保険)
1884 労災保険法成立(ドイツ)
1889 老齢・廃疾保険法成立(ドイツ)
1897 労働者保護法成立(イギリス)
1898 労働災害補償法成立(フランス)。無拠出老齢年金法成立(イタリア)
1908 無拠出老齢年金法成立(イギリス)
1911 帝国保険法成立(ドイツ)。国民保険法成立(国民健康保険・失業保険)(イギリス)
1913 公的年金保険法成立(スウェーデン)
1920 失業保険法成立(イギリス)
1925 寡婦・孤児・老齢拠出年金法成立(イギリス)
1927 失業保険法成立(ドイツ)
1930 社会保障法成立(フランス)
1932 家族手当法成立(フランス)
1934 失業法成立(イギリス)
1935 社会保険法成立(アメリカ)(公的扶助)
1938 社会保障法成立(ニュージーランド)
1939 家族法典制定(フランス)。老齢遺族保険成立(アメリカ)
1942 ビバリッジ報告(イギリス)
1944 国民保険・国民保健サービス。国民扶助に関する白書(イギリス)
1945 家族手当法成立(イギリス)。社会保障の組織に関する10月4日の大統領令(フランス)
1946 国民保険(労働災害)法、国民保険法、国民保健サービス法成立(イギリス)。国民年金法成立(スウェーデン)
1947 国民健康保険法成立(スウェーデン)
1948 国民扶助法、児童法成立(イギリス)
1951 労働保険条例制定(中国)
1956 老齢・遺族・障害保険導入(アメリカ)
1957 第一次年金改革(西ドイツ)。公立病院の料金制廃止(ニュージーランド)
1959 改正国民保険法成立(イギリス)。国民付加年金法成立(スウェーデン)
1962 国民保険法成立(スウェーデン)
1964 社会保障法成立(ニュージーランド)
1965 老齢・遺族・障害・健康保険導入(アメリカ)
1966 国民扶助を補足給付に改称(イギリス)
1967 社会保障改革令議会提出(フランス)
1970 世帯所得補足法成立(イギリス)。いわゆる「7クローネ改革」により医療費の一部負担開始(スウェーデン)
1972 第二次年金改革(西ドイツ)。補足的保障所得(アメリカ)。社会福祉省設置、傷害補償法成立(ニュージーランド)
1973 国民保健サービス再編成法成立(イギリス)
1974 被用者退職所得保障法成立(アメリカ)
1975 社会保障年金法、児童給付法成立(イギリス)
1976 部分年金制度の発足(スウェーデン)
1977 疾病保険費用抑制法成立(西ドイツ)。国民年金導入(ニュージーランド)
1978 社会保障の一般化に関する法律成立(フランス)
1980 社会保障法成立(イギリス)
1982 ウィーンで「第1回高齢者問題世界会議」開催
1985 地域・在宅ケア法成立(オーストラリア)
1988 社会参入最低所得制度制定(フランス)。家族援助法制定(アメリカ)
1990 国民保健サービス・コミュニティ・ケア法成立(イギリス)
1992 退職年金保障税制度導入(オーストラリア)
1994 公的介護保険法成立(ドイツ)。老齢連帯基金創設(フランス)
1996 日本の首相橋本龍太郎(当時)がリヨンでの主要国首脳会議で世界福祉構想を提唱(世界各国の社会福祉政策の知識と知恵の共有化)。個人責任・就労機会調整法制定(アメリカ)。失業給付にかえて求職者手当金給付開始(イギリス)。老年人権益保障法制定(中国)
1997 高齢者ケア法制定(オーストラリア)
1998 敬老年金制度導入(韓国)
2000 普遍的医療保険制度施行(フランス)。新遺族年金法成立(スウェーデン)。国民基礎生活保障法施行(韓国)
2002 スペインで「第2回高齢者問題世界会議」開催

関連項目

1. 医療保険
2. 医療保障
3. 介護保険法
4. 家族手当
5. 救貧法
6. 健康保険
7. 厚生年金保険
8. 公的扶助
9. 高齢化社会
10. 国民年金
11. 失業保険
12. 児童手当
13. 社会政策
14. 社会福祉
15. 社会保険
16. 生活保護
17. 退職者医療制度
18. 年金保険制度
19. ロイド・ジョージ
20. 老人福祉
21. 老人保健法
22. 老人問題
23. 労働者災害補償保険
24. ロウントリイ

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