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(1).Mill, John Stuart(1806-1873) 『経済学原理』 第3版,第5版
Principles of political economy : With some of their applications to social philosophy / By John Stuart Mill
3rd ed; 2vols, 22cm (私家用に再製本されている)
London : John W. Parker and son , 1852
Vol.1 : [i]-xx, (1)-604
Vol.2 : [i]-XV, (1)-571,(572)
Principles of political economy : with some of their applications to social philosophy /
by John Stuart Mill
5th ed; 2vols, 23cm (オリジナルのクロス製本)
Vol.1 :[i]-xvi,(1)-607,(608)
Vol.2:[I]-XV, (1)-591,(592),(1)-8
古典は同時代に対してだけでなく、現代にも直接語りかけてくる。ミルの『原理』がその一つである。この本について若干説明をしておきたい。 スミスが『国富論』を出版して以来、経済学はリカードやマルサス等によって、理論的な分析用具を開発して純化する点では、長足の進歩を遂げた。 そのため、スミスでは古くなる。そこで、純粋経済学の成果を取り入れた新しい経済学の教科書が求められていく。 この動きに対抗して、 ミルが経済学の本を書いていった。彼は認める。先端的な経済理論は現実の問題に対して、それが経済だけの問題であるようにみえても、 十分に答えることはできなくなっている、と。なぜならば、当時の実際問題は新たに起こってきた社会主義思想や労働間題、環境や文明 に関する問題などと絡んでいたからである。こういう状況に対して、理論を自己増殖させるだけでは役に立たないと、彼は判断した。 ミルは「スミスに還れ」と言う。 このスミスの『国富論』であるが、それは当時の経済学界の議論の中からのみ生まれてきたのではない。それは今日でいう社会・ 人文科学の中から生まれたものであり、当時の一般読者や政治家には広く読まれたのである。ミルはその理由を考え、それは専門用語 や理論が抽象的にそれ自体としてでなく、広大な視野の中で提示されているからだと、了解した。そこでミルも、スミス以降に進歩し てきた精緻な理論的成果を取り入れつつ、それと現代に得られた社会思想の成果とを結合させようと考える。そのために、『原理』の 副題は「原理の社会哲学への適用」となっているのである。 経済学は今日に至るまでずっと、富を研究してきている。ミルもそうであって、彼は富を資本主義的大工業と世界市場の中で、どう すればうまく捉えることができるかと考えた。彼はスミスに倣って、富をヨーロッパ文明史と国際関係の広い視野の中で検討していく のである。つまり、彼はヨ-ロッパが狩猟・漁労の「未開」社会から商工業の「文明」社会に向けて経済発展してきている様子を 、公私分業の成立や生活様式の変化、自由時間の獲得という人間的発展の観点で考察している。そしてそのヨ-ロッパ史をいわば 「横倒し」にしてみると、世界の一方では、インディアン的狩猟社会やアラブ的牧畜社会・アジア的農耕社会があるかとおもえば、 他方ではヨ-ロッパ諸列強のように資本主義的に発展したところがある。そして、ヨ-ロッパ・非ヨ-ロッパの間で南北問題的な 様相を示している。また、同じヨーロッパの中でも、国によって豊かさの程度と経済成長の速度に違いがあって、覇権争いをしている。 このように世界の諸国民の間で富裕の程度に違いがあるのはなぜか。ミルはその法則の解明を、一国の内部的な自然条件や技術水準だけ でなく、人間性や倫理・制度・社会関係を組み込んで考えていく。 以上の方法を指して、ミルは経済学は「道徳科学」でなければならないとした。スミスがミルによって新たな環境のなかで見事に再生されている。 さて、『原理』は長大であってそれを読み通すのは大変である。なにか良いとっかかりがないだろうか。 ミルの魅力の一つは、その構想力が際立っていることにある。その、一例--スミスの時には、水や空気はそれがどんなに人間にとって欠くこと のできないものであるとしても、無限にあるから、それらに交換価値はないとされていた。しかし、ミルの時になると、水は水道施設によって供給 されるから、それは交換価値をもつと見られるようになった。この事態の変化を空気にあてはめて、水中で人間の活動がなされるようになる場合に 応用してみれば、空気の供給に時間と労働がかけられるようになり、空気にも価格がつくようになると言うことができるだろう。さらに想像を進め て、「自然界の革命」のために空気がもはや自然の賜物ではなくなり、誰かに独占されるようになれば、それは高い価格をもつようになるだろう--。 この推論が指し示すことは、地球環境危機や宇宙時代の今日のわれわれには経験済みの現実のものである。そして次のように言うこともできるのである。 このような独占でもって利益を得ることは、重商主義的な意味で富を得るとしても、古典派的なミルからすれば、国民や人類を貧しくすることである。 この種の「貧しさ」からの解放は、まさに現在の問題であると言える。ミルの構想力はそこまでわれわれの思考を導いてくれる。 また、ミルは経済学的分析をするなかで、分析だけに止めず、当時の新しい社会的な動きであったフェミニズムや従業員利潤参加制の新しい企業組織、 「生活クラブ」的なものに注目していると言ったら、人はどう思うであろうか。それらの新しい動きにミルは社会的公正や望ましきものを見るのであるが、 今日の専門研究者の中には、それは科学の中に倫理や価値を持ち込むものだと反発する者がいるであろうか。 いずれにしても、私はここに紹介する『原理』第3版を開かれることをお勧めしたい。第3版では、アイルランドの小作問題、国際的価値、社会主義思想 の検討、資本蓄積と労働者階級の将来を検討する箇所で、大幅な改定がなされる。第5版では、事実的な訂正や補足的な説明が各所でなされている。
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(2).John Maynard Keynes(1883-1946)『雇用、利子および貨幣の一般理論』
The Genenral Theory of Employment Interest and Money./ J.M.Keynes
Macmillan and Co., London, 1936
(i).xii. 384,19
ケインズ経済学はわが国では1950年代から60年代にかけてマルクス経済学と拮抗する一方の雄であったが、70年代に顕著となったスタグフレーション の状況以降においてその終焉と政策の非有効性が言われるようになった。それが、80年代から90年代にかけての金融グロ-バリズムと規制緩和のもと でバブルの崩壊を経験し、企業経営のリストラに苦しんでいる現在、再びケインズが見直されるような機運となっている。他の経済学の古典と同じく、 今ケインズが生きていたら、どうこの不況に答えるであろうかと、想像力がかきたてられる。 ケインズは株式市場と国際経済に対して次のような考えをもっていた。 株式は株式取引所で評価されるが、それは当該企業の収益を予測してなされる よりも、市場の群衆心理にもとずいてなされている。これでは経済はカジノ化してしまい、一国の公共利益に反することにもなる。また、国際経済にお いては、ある国が貿易黒字を追求することによって他国を犠牲にしてしまっては、無秩序になってしまう。それを防ぐためには、すべての国が自国の事 情を考えた利子率のもとで完全雇用を維持する経済政策を共に採用すべきである・・・。 こういうケインズを知ると、われわれはケインス政策の直接の有効性云々の議論を越えて、現代資本主義を認識するのに、なおどころか、大いに示唆 を与えられる。 『一般理論』は普通、第1次大戦後の不況による失業問題を解決するために、その基礎となる理論を構築したと位置づけられている。 ケインズは最初はA.マーシャルの経済理論の忠実な継承者をもって任じていたのであるが、どうしても師の理論に反逆せざるを得ないような現実に ぶつかり、師と自らの双方を乗り越えていく。本書は1933年にその直接の執筆を始め、1936年1月に刊行された。その間、それは何回か草稿の書き直し を経て、また印刷中にあっても何回かの校正のさいに、校正刷りを友人や研究者に回して論戦をしながら、改善を繰り返して、ようやく出版されている。 以下、本書が現代の資本主義を捉えていくうえで重要な視点となるものを幾つかあげてみよう。 ケインズまでの正統的経済学は、経済社会は自分の 利己的な満足を極大化することを目的として行動する合理的な経済人によって構成されていると考えていた。だが、現実はそうでないことに、ケインズ は注目する。例えば、労働者をとってみれば、労働者は自分の労働力を商品として販売し、その労働力の価格である賃金でもって生活を維持している。 その点では労働力は一般の商品と同じであるとしても、それは他の普通の商品とは異なる特殊の質をもった商品である。それは機械の価格と同じように 需要の変動に伸縮的に応じてやがて均衡していくような商品ではない。こういう認識を現在のリストラのもとで活路を探すはめになっている日本の サラリーマン--50代になって失職するなんて今まで会社に捧げてきたこの人生はなんであったのかと戸惑う、将来の転職を考えて今から新たな技能 の修得の準備をする、家族と離れてまでも単身赴任することを厭わないように気持ちを整える、会社に捧げてきたこの人生とは何であったのか、等々の ‐‐はどう受けとめるであろうか。 次の視点として、企業家は事業に投資して労働者を雇用するが、それだけの雇用コストがかかってもよいとさせるものは何か。経営環境は将来どうなるか 不確実であり、生産の期間中でも価格は変動する。こういう不安定な状態のもとでは、将来にたいする企業家の期待こそが現在の投資行動を決定するもので はないのか。つまり企業家はG-W・・P・・W’-G’という貨幣資本循環の形での再生産を期待するのであって、それまでの古典派理論が説くように 、貨幣は単に商品交換を媒介する手段(W-G-W)というものではない。貨幣は生産にたいして中立的で何ら影響を与えないというものではない。 こういうケインズの認識では、古典派のケネーやスミスが再生産論で明らかにしたように、特定の使用価値の特定量の回収や社会的分業下での産業部門間の 補填関係の様子が出てこない点で不満はあるが、それでも貨幣には普通の商品とは異なる独特の性格があるのではないかという以下の指摘につながっていく うえで、それは重要である。 古典派は人々の所得はその全部が企業家の供給する消費財の購入に支出されると考えた。この理論は社会の消費財の価値はすべて実現されると想定している のだが、それは現実的なものであろうか。ケインズはそんな価値実現の保証はないと考える。所得の一部は流通に出ることなく、保蔵されるからである。 貨幣には普通の商品にはない特殊な働きがあって、それは資産(ストック)となって価値を保有することができるのである。だから社会の中で貨幣量が増えても、 それだけでもってそれが消費財にたいする有効需要となることはない。それゆえ、古典派の大前提であった「供給が自らの需要を創造する」という命題は成立しないことになる。 以上、ケインズの思考のほんの一例をあげておいたが、彼の 『一般理論』 は今日の日本資本主義と世界経済を現実的に捉えていくうえで貴重な方法と 考え方をわれわれに与えてくれる。その点で本書は現代の古典である。
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(3).Smith, Adam (1723-1790) 『国富論』 フランス語版(G.ギャルニエ訳)
Recherches sur la nature et les causes de la richesse des nations; par Adam Smith.
Second edition, avec des notes et observations nouvelles; par le marquis Garnier. A
Paris, chez Mme veuve Agasse. 1822
Tome 1,(vi)+xxiv+ clvi+ 368. Tome 2,(iv)+493. Tome 3,(iv)+564.
Tome 4,(iv)+556. Tome 5,(iv)+670. Tome 6,(iv)+572.
訳本の価値はどこにあるのか。というのは,翻訳は反訳であって原本に対する裏切 りであるという言葉があるくらいだからである。だが翻訳は誤解を含めて,理論や思 想・政策の国際的伝播を考える上で,一つの意味のある研究対象となりうる。 『国富論』は経済学の古典の中でも最も広く訳されている本であろう。それはこれまでに18 ケ国語に訳されてきており,今日に至るもなお新訳が試みられつつある。最も早い訳は『国富 論』刊行年と同じ1776年に出版されたドイツ語訳であり,日本語訳は遅れて明治の1870年に出 された部分訳が最初である。わが国は翻訳することに世界一熱心であり,抄訳を含めると既に 14種も出ていて,今日なお新訳が出されつつあるという状況である。 さてフランス語版のことであるが,『国富論』が刊行された翌年の1777年2月,Le Journal des s avantsに書評が出て,そこには『国富論』は政治家に役立つ本であって, フランス語に訳すことはできても,その出版の費用には耐えられないだろうと書かれ ていた。しかしその後,出版の試みは続く。最初に1778年,オランダのハーグでMという 匿名氏による訳が出され,次に1779年から80年にかけてブラヴェ師による訳が雑誌に 出る。1781年にはそれがまとめられてスイスのイブルドンで刊行される。スミスはブラ ヴェに対しては,翻訳に満足していると礼状を出しているが,モルレがこの訳ではスミ ス理論の抽象的なところ(「スコットランド的精妙さ」)が理解されないと批評していた ように,ブラヴェ訳は悪訳だとみなされている。訳者自身も認めているように,それは まったく自分用に訳したものであったから,正確さには欠けていた。その後,1790年に J. A.ルーシェによって余り価値のない訳が出されたのを間に挟んで,第4の定評ある 訳がギャルニエによって1802年に刊行される。 このギャルニエ訳の初版はパリで5巻本として出され,そこにはスミスの肖像と訳 者による序文および注解が付されていた。第2版は1822年に6巻本で出され,新しい 注解が付け加えられた。そして1843年にはA.ブランキによって改訂版が出され,『国富 論』に対してなされたブキャナン,マカロック,マルサス,リカード,J.ミル,シスモ ンディ,ベンタムの評言が付け加えられる。本コレクションに収めたのは前記の第2 版である。 このギャルニエ版の特色は,経済学を国民的類型の観点から見ると,二つある。一つ は『国富論』の体系構成に対して批判的であること。もう一つは英仏の経済学を比較し て,フランス経済学の優秀性を押し出していること。 『国富論』の構成に問題があることは早くから指摘されていた。スミスでは貨幣につ いての議論が各編にわたって分散されている,等。ギャルニエはスミスの理論構成が 真の意味で統一的でなく,科学に必要な演繹的方法が無視されていると見る。彼から すれば,経済学の本論は価値論から始められるべきであって,その前に述べられている 分業論は序論にすぎないと映る。また『国富論』には銀価値の変動論を始めとする「余 論」が幾つかある。それも非常に長くて本論を超えるものもある。ギャルニエはそれら は本論と無縁であると考え,こういう脱線がスミスに対する理解を妨げているから,そ れらは巻末にまとめて付録とすべきであると批判する。そう批判して,彼は自ら自然 と思われる論理的順序に『国富論』を編成し直し,その成果を読者に提供する。このよ うに再構成された理論的概括の試みは,彼以外にもコンドルセ侯爵やJ. B.セー等に よって試みられ,その努力によってフランスでは『国富論』は受け入れられていく。 またギャルニエはスミスをフィジオクラートと比較し,後者の議論の方を正しいと 判断した。そこにはお国自慢にのみ帰すことのできないものがあり,経済学の対象に ついて反省すべきことがある。それはフィジオクラートが人間の経済に対する自然の 作用を認めていたことである。但し,フィジオクラートはそのことを農業部門にのみ 認めていた。その自然の作用の範囲を工業部門を含む産業にまで広げ,人間は物その ものを創造することはできず,ただその形態を変換するのみであって,もしも創造する とすれば,それは効用であると考えたのが,セーであった。 以上,こんな一訳本からでも,我々は経済学の対象と方法について問題を構成するこ とができるのである。経済学の祖国はイギリスであるとしても,このようにその発展 にフランス的特質が役立つことがあったように,西ヨーロッパとは異文明のわが日本 が独自の貢献をすることができるのではないか。例えば,経済学の初発概念である交 換価値はフランスのスミス受容者におけるように体系上の理論的定義のみで済まして よいものでなく,価値論の前提として置かれた分業論や交換本能論の歴史的社会学的 意義と関連づけることなくして翻訳はできないのではないか。また,スミスが重商主 義のように貨幣論をまとめて考察しなかったことには彼なりの内在的理由はなかった のか。彼が余論を置いたのも,それを本論の展開にとってどうしても必要なものとし て置くことはなかったのか。こういう問題設定は同時にそれらの問題に解答を試みて きたわが先学達の営みを再評価することにもつながるだろう。
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(4). Mill, John Stuart(1806-1873) 『論理学体系』 第3版
A System of Logic / John Stuart Mill
2 vols.,
3rd ed., London, J.W.Parker, 1851
J.S.ミル(1806-73年)は19世紀イギリスの経済学者であり社会改革家である。 その彼は本格的な政治経済の著作活動を開始する前にかなりの時間をかけてここに紹介する 『論理学体系』(1843年,初版)を書いているのであるが、このことはあまり知られておらず、 その意味も省みられることが少ない。彼の生涯を特徴づけているものの一つは父ミルから猛烈な 英才教育を受けたことであろう。彼は3才でギリシャ語の古典を、8才でラテン語の古典を学び、 同じ年頃の子供との遊びを知らないままに、なんと13才で当時出たばかりのリカード『経済学原理』 (1817年)学習させられたのである。その後24才頃に彼は論理学に関心を抱き、推理はどうした ら正しくなされるか、認識上の誤謬はどこに発生するかということを探究するようになる。これは一見 すると抽象的な議論でしかないように見えるが、その背景には実践上の問題に関わってどうしても鍛え ておかねばならなかった方法上の問題があったのである。それは彼の『自伝』を参考にしてみれば次の ようなことであった。 『論理学体系』の中では帰納法についての議論が展開されている。帰納法は17世紀のベーコンに起 源をもち、イギリスに特徴的となった思考方法であるがと見られることがあるが、実際にはその方法を 採用する者はミルの時代に入っても少数であった。時代は環境的にも良くなく、ナポレオン戦争が終結 して1815年には神聖同盟が結ばれ、思想的には反動期であった。この時の論理学の主流はドイツ的 な先験的直観派にあったらしい。直観派は真理を絶対的で必然的なものとみなし、それは人間の心中に ある直観によって認識できると考えていた。保守派は既成の制度を擁護するためにこの直観的認識 (→宗教的真理)を認識の底辺におき、その偏見を心中の信念や強い内面感情で支えていたのである。 彼らは男女間や民族間の性格の違いは生得のものであって環境によって作られたものでないから変えよ うがないと考え、社会改革の動きを妨げていた。それに対してミルは既成事実の絶対性は外見的であり、 真実は人間の精神の外にあるものであって、人間はそれを観察と経験によって知ることができると考える。 彼は社会改革を推進するのであるが、この経験的認識を使って他人にその社会改革の正当性を説得すること ができるとするのである。 この本は生前に8版を重ねるほどによく読まれた。本コレクションに収めるのはその第3版である。これ の初版が出た後で『経済学原理』(1846年)が刊行される。 我々の社会科学研究のありかたを振り返ってみると、予めこのようにして知識獲得の方法を体系的に学ぶ ことは少ないと思われる。また我々が自分の中にある意識下の「日本の思想」(丸山眞男)を対象化してそ れと対話することもあまりない。かつて中谷宇吉郎は『続冬の華』(1940年)の中で人は学問的議論を する時でも「金中猶蟲あり、雪中蟲無んや」の類の「語呂の論理」に陥ることがあると指摘していた。ゴロ のロンリとは天保期の鈴木牧之が『北越雪譜』の中で示していたものであって、金属が錆びるのは金属の中 に眼に見えないほどの小さな虫が発生して腐るからであり、この金属に虫が発生するくらいだから雪の中に も発生しうるだろうという論理である。中谷はこの種の偽論理が自分の周りでも知の名において行なわれて いることを警戒する。その一例として彼はマイナス・イオンの効用をめぐる研究者間の議論を取りあげてい る。それによれば、マイナス・イオンの神経沈静作用は当時既に実験的にも確認されており、論者はそのこ とを聴者に納得させるために不用意にも(無意識に)プラス・イオンはマイナスの反対だから興奮的に作用 するはずだと主張してしまったらしい。プラス・イオンの作用については実験結果で確かめられることをた だ述べればよかったのに、そこには実証を伴わない論理の飛躍があったのである。この種の「語呂の論理」 は実は空気のように我々研究者をも取り囲んでいる。 |
(5). 『アダム・スミス典拠集』
Adam Smith references : an inquiry into the nature and causes of the wealth of nations. [microfiche]
5 vols.; 30cm + 2 guide books
New York ; Tokyo : Pergamon Press , [19--?]
segment 1 ; 2 vols. + 1 guide book
segment 2 ; 3 vols. + 1 guide book
―引用について― (InfoPort no.8) スミスの『国富論』は経済学のみならず社会科学の有数の古典である。 そのため経済学史の研究者はその理論的・思想的源泉に関心を抱いてきた。 ところがスミスはその本で参考文献をほとんど示していない。 そこでE.キャナンという人がその欠を埋めるために自分の編集した『国富論』(1904年)において引用書の推定をおこなった。 これが20世紀の代表的な版となって多くの人に読まれていく。 そのキャナンの推定に基づいて(――それに独自の推定になるチュルゴー『省察』を加えて)スミスによる引用文献をマイクロフィッシュの形で刊行したのが本典拠集である。 この典拠集を一瞥すれば,スミスはギリシャ・ローマの古典から同時代の重商主義や啓蒙思想の世界の中でまことに幅広く知的に活動していたことがわかる。 今日それらの文献は稀覯本となっていて,入手することは大変難しいから,このようにマイクロフィッシュで刊行されたことは研究者にとって大変に便利である。 そこには例えばこんなものが入れられている。 ホメロス『イリアッド』,プラトン『共和国』,マン『イングランドの財宝』,ペティ『政治算術』,スチュアート『経済学原理』,ケネー『経済表』,ミラ ボー『農業哲学』,モンテスキュー『法の精神』,『百科全書』の幾つかの項目や雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』のある号,グロティウス『戦争と平和の 法』,ホッブズ『リヴァイアサン』,ロック『市民政府』,ヒューム『政治論集』,等々。 他にも多くの珍しい本や旅行探検記の類,スミスの伝記等,80余点の文献が収められている。 もちろんほとんどが全頁で。 その全貌については付設のカタログを参照していただきたい。 綺羅星のごとく壮観な光景である。 スミスはこれらをすべて読んでいたのだ! それらは機械で閲覧できるだけでなく,紙に印刷もできるから,スミス研究者のみでなく,およそすべての人文・社会科学者にとってなんとも便利なものであ る。 ところでこの典拠集は次の問題を我々に提示している。 スミスはなぜ『国富論』で引用をほとんどしなかったのか。 (彼は引用文献の明示を30箇所ほどでしているが,それは量としてはかなり少ない。それにそれらの大部分は初版でなく第2版(1778年)で示されたものである。) 引用が少ないことは当時スミスに限らないことであったが,そこに彼に固有な内面的な理由はなかったであろうか。 そのことをちょっと考えてみる必要がある。 スミスは若い頃,『エディンバラ評論』に寄稿して,イギリス人は独創性や構想力に富んでいるが,フランスの知性からその優れた判断力・適正さ・秩序を学 ぶべきであると述べ,そのモデルとして『百科全書』とルソー『人間不平等起源論』をあげていた。 それらは自然科学と社会科学の双方において経験による諸事実を自然の順序で並べていく推測的歴史の方法に拠って書かれていた。 彼はその後この方法を自分に適用して著作活動をしていく。 また彼は処女作の『道徳感情論』において,次のように自分の方法を述べることがあった。 ――人は私が本書で展開する理論に過去の有名な学説のほとんどすべてが入り込んでいることを見るであろう。 (その点で彼の独創になるものは少ない。) けれどもそれらはある点で正しく,他の点で誤っている。 私はそれらの部分的な真理の背景にある一般的な真理を探り当てようとした――と。 この方法はその次の著作となった『国富論』にも当てはまる。 スミスが『国富論』の執筆過程で腐心したことは,手紙での苦労話や「序論」での構想の提示からも窺えるように,新たな事実や新奇な考えを提示することより も,収集した歴史上・比較文化上の事実や古典古代・重商主義・重農主義・啓蒙思想等の先人の考えをどう一般的な理論の中に鋳込んでいくかということであっ た。 どこから始めて(労働生産力の基礎である分業),どういう論理構成をもって(価値論・価格論・分配論・資本蓄積論・再生産論),どこで終わるか(自然的秩 序の体系によるイギリス植民帝国財政の批判),その自然の配列と順序を見つけること,これが彼の一番苦労したことであった。 ある本の独創性や作品性はこういうことにも現れている。 だからスミスは引用文献をいちいち示す必要を感じなかっと言える。 彼はどこの誰から何を摂取しどう批判したかを読者に示さなくても不誠実であるとは思わなかったのである。 もしも今日普通の研究者がよくやるように,自分の説と他人の説との区別をつけることに不必要なまでに神経を使うのでは,それは研究の途に就き始めた者にモ ラルを教える点で意味があるとしても,スミス的な独創性は無くなってしまう。 経済学史の研究論文における実証ということが,典拠を明示する類のことだけに矮小化されるのであれば,それは寂しい。 「すべての道はスミスに通じる」とかスミスは「偉大な剽窃家」であると言われるが,それは以上のように解すべきであろう。 ある人物の理論を歴史的に位置づけるためには,キャナンのように典拠を調査することは有用である。 現在のグラスゴー版スミス全集はその調査方針をもっと徹底させて編集している。 だが同時に,矛盾的な言い方をするが,その研究はストップしなければならない。 スミスに先人の跡を詮索することは以上の彼の方法を知った上でなされるべきであろうから。 こういうことを示唆してくれる点でも,このマイクロフィッシュの典拠集には使用価値がある。 ―版の異同研究について― (InfoPort no.9) |
(6). マルサス『人口論』
T.R.Malthus, An Essay on the Principle of Population, or, A View of its Past and Present
Effects on Human Happiness. Vol.1-2, 3 rd ed., London.
マルサス(1766-1834年。モールタスと読むのが正しいらしい)は『人口論』の著者で有名である。 彼が人口は幾可級数的に増え、食料は算術級数的に増えると主張したことは誰でも知っているであろう。 また経済学史の講義を受ける学生であれば、『人口論』がフランス革命の原理を展開した無政府主義者 W・ゴドウィンを批判して、土地所有と男性にとっての結婚制度を擁護した本であることを学ぶであろう。 この『人口論』は一つだけでなく、第6版まである。初版は大胆な表現と文学的にも魅力のある書き方を していたために成功した。だが、マルサス自身は満足せず、学術的な改訂を計る。 (そのように始めから学問的な体裁をとっていれば、売れなかったであろう。) 彼は最初、単なる人口増加は国民の繁栄を示すものでないと考え、人口増を食料増のテンポに抑えるべき ことを主張していた。そしてその過程で貧困と子供の死、結婚抑制による悪徳の発生が必然的に伴なうと 論じていた。経済学は何とも冷たい学問である。それが第2版で人間には性欲に対する道徳的抑制の力が あると改められる。そして先見的であった仮定や命題が歴史や諸国の実例によって固められていった。 こうしてマルサス自身が認めるように、第2版は初版と異なる「新しい著作」となって現れる。 そのため後に各版研究がJ.ボナーやかの河上肇、そして今日の羽鳥卓也等の研究者によってなされてきている。 マルサスに対する評価は両極端である。彼の墓碑銘には「その人物の尊さとその思想家としての誠実さは、 いかなる時代いかなる国を通じても第一流であった」と記されているらしい(高野岩三郎・大内兵衛訳 『人口の原理』の大内筆「解説」より)。その通りであって、彼の気質が穏和であったことは多くの者が 認めている。反対に、彼は貧乏を犯罪とみなし、貧者にその道徳的責任をとらせようとした点で、 恥ずべき学説を唱えた者と断じられることもある。 通例、経済学史の教科書では、リカードは投下労働価値論に拠って分配関係を内面的に分析し、 進歩的産業資本のイデオローグになったとされている。他方、マルサスは、表面的な需要・供給の視点から 資本主義を分析し、保守的な地主階級のイデオローグになったとマイナス的に評価されることがある。 結局リカードがその後の19世紀の経済学を支配することになる。 それでもマルサスには資本主義認識の点で見逃せない方法がある。それは彼の理論が抽象的普遍性よりも 帰納的で現実性の点で優れていることである。それは後のケインズによって「私には最も親しみやすく、 かつ・・・・・容易に正しい結論に導くと思われる方法」(『人物評論』)だと評価される。 その方法によってマルサスは「有効需要」の貨幣理論を構成していくのである。彼は産出量を決定するものは 貨幣にあると考えており、また彼は商品の価格と資本の利潤は地代支出や公共事業による有効需要 (――ヒューマニズムや人権論者の主張する生存権とは異質の考え!)によって決定されると考えていた。 それ故に彼はケインズから「ケンブリッジ経済学者の始祖」(『人物評伝』)と称されるようになる。 これ以外にもマルサスには今日の日本経済に対して示唆的なものがある。それは農業と工業との違いに ついてである。農業の主要な生産手段である土地は資本投下によって改良することができるが、 それにも限度があり、品質にばらつきが大きい。その点で土地は機械と異なる。土地には人工物でない 「自然の賜物」(『地代論』パンフレット、1815年)の要素がどうしても残るのである。マルサスは その認識のうえに、農工のバランスある産業構造や食料自給率の向上を考えていく。 マルサスがダーウィンの進化論形成史に登場することを付言しておこう。 マルサスは『人口論』初版の第9章で次のようにコンドルセの人間の無限完成論を批判する。 人間の寿命は気候や栄養・風俗等が良ければかなり延びるだろう。また人間の身体的特質を 遺伝的に改良することはできるだろう。しかし不老不死を実現できると考えるのは不合理である。 そう論じる中で、彼は遺伝的改良の例示として、ビッカースタフ家における結婚上の注意や乳搾りの 女性モードとの血の交わりをあげた。この部分が1838年当時の ダーウィンに、彼の選択法則や淘汰説の考えに近いものを感じさせたのである。 『人口論』初版は成功して売り切れ、当時から稀覯本であった。現在それは大変な高値で古書市場に出ている。 日本の購買力(――研究者の財布とは無関係)がこの市場価格の水準に影響力を与えている。 |
J.M. Keynes
1)The Economic Consequence of the Peace, Macmillan and Co. London, 1919.
2)A Revision of the Treaty, Macmillan and Co. London, 1922.
3)A Tract on Monetary Reform, Macmillan and Co. London, 1923.
4)The End of Laissez-faire, Leonard and Virginia Woolf. London,
1926.(2nd Impression)
5)Essays in Persuasion, Macmillan and Co. London, 1933.
6)The Means to Prosperity, Macmillan and Co. London, 1933.
7)How to Pay for the War, Macmillan and Co. London, 1940.
ヨーロッパの資本主義の構造は19世紀後半から20世紀にかけて、 特に第1次世界大戦を契機にして、変わる。それは私企業間の 自由競争から大企業による寡占価格の経済へ、金本位制から 管理通貨の経済へと変わる。そのダイナミックに変化した現実 を認め、それの経験に合う新たな経済学が必要となる。 A.バーリとG.C.ミーンズは株式会社の発展によって 市場が寡占化し、会社の資本所有と経営とが分離していること を認めた。企業は価格競争を避け、ある程度価格を管理するよ うになる。経済活動はかつてのように勤勉と節約による資本形 成や物的な所有権の安全を基礎とするものでなく、株式の発行 と銀行からの借り入れの債権・債務関係を基礎とするものに移 っていくのである。そして企業は実際には株主だけのものでな く、経営者・労働者・関係会社・消費者の利益を考えるものに なっている、あるいはそうでなければならぬものになっていく。 また、国際経済面では金本位制が崩れていった。それまでは金 が価値の最終的な尺度であり、各国の物価は金の国際移動によ って自動的に調節されていたのであるが(その裏で恐慌とブー ムの景気循環があった)、今や金は主要国の中央銀行によって 管理された通貨となる。それは世界の工場と金融センターがイ ギリスからアメリカに移ったことでもあった。J.A.ホブソ ンはそれまでの自由貿易体制は崩れ、欧米の列強が(日本を含 めて)領土拡張の新帝国主義の段階に入っていることを認め、 その背後に金融階級の利害があることを解明する。 新たな現実を踏まえた新たな経済学が必要となる。それなの に政治家も国民も古い自由放任主義の考えに囚われていた。バ ーリ=ミーンズとは別に、ケインズがそれを打破する。 ケインズの経済政策はその後の1970年代に試練を受け、その経 済学も再検討の対象となる。だが、その学問的方法や世界観は今 日なお、生きている。それは、凡そ古典の名に値する経済学が皆 そうであったように、経験科学的であり、政治経済学的であった からである。その方法やヴィジョンは今回紹介するもの(『一般 理論』以前のもの。7)の1点を除いて)によく現れている。 ケインズは特に「債権者」の行動を問題にする。イギリスは 17・8世紀から続く植民帝国であり、植民地に開発投資をしてき ていた。また、19世紀半ばには有限責任の株式会社条例が成立し ていた。そのためにイギリスでは債券や株式に投資する独特の階 級が成立する。彼らはイングランドの南部に典型的に見られる上 流階級であった。彼らはお金を持っている。けれどもうまみのあ る投資先を見つけることが次第に難しくなっていた。そこで彼ら はお金を手元に置いておき、いつでも使える状態にしておこうと する(「流動性選好」)。こうなると、お金は商品の購買手段 (古典派の貨幣観)でなくなり、価値の保蔵物(マルクスが重商 主義を再評価して注目した貨幣の働き)となる。これではお金は 実業界にまわって生産力を改善することにならない。ケインズは また実業家の心理にも注意を向けた。大企業の経営者は寡占状態 では保守的となり、積極的にお金を借りて競争しようという気に なれないでいる。そこで彼は金融階級と実業階級を結びつけ、貨 幣が流通する仕組みを作ることで、生産の拡大・雇用の確保・所 得の上昇を考えていく。 時代は1930年代の大恐慌に向かいつつあった。その時にあって、 金融階級は債権者としての利益を守るために、為替の安定と通貨 価値の上昇を求め、デフレ政策を要求する。通貨価値は第1次大 戦の戦時インフレのために下落していたのである。彼らは第1次 大戦前の高い貨幣価値に戻ることを、つまり金の輸出解禁=金本 位制への復帰を要求する。こういう彼らの貨幣観は古典派的な中 立貨幣観であった。しかし、この政策は実際には不況をますます 激しくし、実業家の経営意欲を消沈させるものであった。これに 対して、ケインズは実業家階級の立場に立ち(労働者階級を含む )、通貨価値を戦時インフレ以後の低くなった現実の水準に近い ところに安定させようとする。それは物価水準を上げ、そのこと で投資水準を上げて雇用と賃金を改善しようというものであった。 こういう彼の貨幣観は経済に対して操作可能であることを認めるも のであった。 ケインズは利子生み資本(G……G')に対して産業資本(G―W …P…W'-G')の立場に立つ。彼はその立場から中央銀行による 利子率の操作と財政による有効需要の創出=公債による公共事業を 提案する。これがケインズの修正資本主義と言われるものである。 それは当時のコミンテルンの末期資本主義観とは異なり、資本主義 を改革すればその生命力をなお活性化できるという考えであった。 ところが、その彼は伝統に骨化した自由主義者やシティ筋から「社 会主義」呼ばわりされることになる。彼は実際にはケネーやスミス、 リカード等の経済学の本来の伝統に沿い、経済構造の歴史的な変化を 認識した上で、「所有としての所有」を批判し、産業資本と労働の双 方の「国民的利益」を実現しようとするのであった。 ケインズと同様の認識と政策が戦前・戦中の日本にも現れる。 |
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1)はケネーの弟子デュポン・ド・ヌムールの編集になる著作集(1767-68年)であり、 そこに「経済表範式」が載る。だが彼は師の理論よりも政策を重んじ、その政策も穀物貿 易の自由を強調して他の単一地租論を軽視していた。彼は師の「金利論」(利子率規制論 )にも反論すべきものを見ており、それをこの著作集から外す。この点で彼は誠実な編集 をしていない。 2)はA.オンケンが編集した本格的なケネー著作集である。オンケンは「アダム・スミ ス問題」――スミスはフランスで啓蒙思想家やケネーらと交わる前は利他心の倫理学者で あったが、交わった後から利己心の経済学者に転換したのでないか――の提起者である。 彼はケネーをスミスに比肩する経済学者とみなし、最初の経済学理論の体系を生んだ人と 評価する。ケネーは1774年に亡くなるが、スミスは彼が存命しておれば、『国富論』 (1776年)を捧げるつもりであったらしい。『国富論』は成功し、ケネーはその後低く評価 されていく。オンケンはスミスが『国富論』でケネーを不利に扱ったからだと見る。オンケ ンはそのケネーの復権を求めて、ケネーの哲学的・経済学的著作の全般を集め、伝記的資料 をつけて公表する。(但し、医学関係の専門論文は少なく、経済学文献もその後に発見され た経済表「原表第一版」・「第二版」・「第三版」や「人間論」・「租税論」は入っていな い。)編集は原文に誤りがあってもそのままにしておくほどに厳密であり、注も綿密かつ批 判的である。 日本ではケネー研究は戦前から戦後にかけて比較的盛んであった。ケネーと言えば、一枚の 「経済表」で有名であるが、その解明に何人もの人が多大の時間を割いてきている。ケネー にそれだけの価値があるからである。経済学の歴史は今日に至るまでイギリス経済学が主流 であるが、フランス経済学にも独自の貢献がある。加えてイタリアやドイツ、アメリカ、そ して日本にも(!)。その主流の中のスミス経済学にしても、実はケネーとの接触がなけれ ば生誕しなかったと思われるほどに、ケネーから大きな刺激と影響力を受けているのである。 ケネーの意義を簡単にあげておく。 彼は後の数理経済学の祖とみなされることがあるが、それは統計実証的で経験的な基礎を踏 まえたものである。彼は人間の知性を感覚に基づかせている。知性は一般的な観念を用いる が、それは実体としてあるのでなく、感覚的に得られた事実を再生・加工し、真実に迫って いくための道具と考えられている。彼はその概念を、事業家が沢山ある書類の中から調べる 必要のあるもののありかを示すために用いる「付箋」とみなす。これはノミナリズム的な認 識論である。 ケネーはフランスの農業経済事情を調査している。その調査はアンケート方式を用い、数量 化したものを集計していく。その分析は実に周到で体系的である。最初に現状を次のように つかむ。栽培作物ごとに・経営規模ごとに、それぞれ土地生産性や土地単位当り・作物単位 当りの価格、土地単位当りの総経費と剰余価値量、作物総生産高に占める利害関係者の取り 分が計算される。それらを合計するとフランス一国の現状が分かる。次に政策を変えた場合 の「自然的秩序」のもとでの理想値が計算され、現状との比較がなされる。 ケネーは以上の経験論的認識と統計調査および数理的分析の上に、自然法思想を入れて、一 国経済のマクロ的再生産過程=「経済表」を作図する。それは社会の三階級の支出と収入の 間の複雑な連関を、農工2部門間の物的・価値的補填の関係を、ただ一瞥しただけでつかむ ための工夫であった。これはスミスに優るものである。 以上のことと別に、スミスがケネーから刺激を受けたり学んだと思われることがある。自由 競争下での商品の等価交換と生産における価値作出論、貿易差額=富観念と貨幣階級の「非 」国民経済学性の批判、国内市場重視論、重商主義の国家構造分析と新たな国家構想、等。 経済学の歴史は決して単純発展でなく、かなりジグザグである。後代のものが先代のものよ り優れているとは必ずしも言えず、どの経済学にもその対象領域・成立事情・方法において 個性がある。経済学は一つでなく。「諸」経済学なのである。 |
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今回の追加文献は、マルクス『資本論』初版の復刻版(青木書店、1959年。No.6の番号入り)である。他にも復刻版は出ているが、この青木書店版には編集者の序言がない。 経済学の古典の中で『資本論』ほど大きな影響力を後にもたらしたものはない。マルクスは「マルクス主義」者でなかったが、マルクス主義の栄光と悲惨は現 在では過去のものとなりつつある。東西体制がなくなった後、改めて再審に付された『資本論』は今日の世界資本主義を捉えるのにどう有効な示唆を与えてくれ るか、まじめな試みが続いている。 私は前世紀末の98年に市民講座でスミス経済学について話すことがあった。その時に経済学は体制を弁護したり、教科書になる性質のものでないことを述べ た。マルクスの『資本論』もソ連の体制にとって恐ろしい本となっていたのである。1960年代にポーランドのY・クーロンとK・モゼレフスキーによって ポーランド統一労働者党への『公開状』が出されたが、それはマルクス『資本論』の方法によってポ-ランドの現状を批判的に分析したものであり、当局によっ て反体制的だと処罰されたのである。日本でも同じころ内田義彦や平田清明等によって「社会主義における市民社会」の問題が提起されていた。彼らが日本の経 験とマルクス研究から得た社会主義像はまったく革新的であり、資本主義時代に獲得した事実上の生産手段の共同利用を基礎とした「個体的所有の再建」、ある いは「自由人の連合」というものであった。私はそこまで言って問いを投げた。ではスミスはどうか。彼の『国富論』は自由主義体制を弁護するものか。そうで はないという趣旨のことを話した。当日の私の解説は聴講者に十分には伝わらなかったようだが、およそ、経済学の古典と言われるべきものは、人が自己を含む 社会を自分の頭で認識することを促すものであって、暗誦したり上から注入される性質のものでないことは確かである。 『資本論』は当初全3巻で予定されていたが、第1巻のみがマルクスによって刊行された。あとの第2・3巻はエンゲルスによって編集・出版される。また第 1巻だけでも改訂が第2版、フランス語版と続く。したがって『資本論』は未完成であって閉じた体系でなく、開かれた認識の書なのである。理論は実践されな ければ、空虚である。だがそれは時代のものとなった時に変質する。その既成マルクス像に対してゆがんだマルクス批判がなされてきたし、現在では時代の風潮 に乗ってマルクス軽視がはびこる。どちらも自分でマルクスを読むことなく、古典を狭い意味での「政治」下に押し込めている。 かつて「老人のマルクス」があってよいと言う人がいた。では、「主婦」や障害者、多国籍企業の現地派遣員やNGO、移民や非正規雇用者にとってのマルクスはないだろうか。 |
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