Monday, January 26, 2009

資本主義および各主義の定義

げんし‐しゃかい〔‐シヤクワイ〕【原始社会】 げん‐し【原始】

1 原始時代の社会。

2 近代・現代における未開民族の社会。

「原始社会」の諸概念


 それならば、「原始的」とは具体的にどのような状態をさすのであろうか。この問題は、ヨーロッパやアメリカの文化人類学者や民族学者たちの間で盛んに論議されたが、結局、「原始的」という語は、国家生活が営まれていないか、営まれてはいてもまだ部族国家tribal stateの域を脱せず、社会は共同体的規制が厳しく、文字はまだ使用されず、貨幣経済も行われなく、冶金(やきん)術は採用されていても未発達である状態を形容する語として落着するに至った。ドイツ、オーストリアの学者たちは、「自然民族」Naturvlkerの語を「原始民族」と同意義に使用することもあった。「未開の」uncivilizedの語も、「原始的」とほぼ同じような意味であるが、このほうは近代の低級民族に適用されることが多かった。
 1887年、アメリカのモーガンは、名著『古代社会』Ancient Societyを公にした。このなかで彼は、歴史を未開時代と文明時代に大別し、未開時代をさらに「蒙昧(もうまい)」savageryと「野蛮」barbarismの2段階に細分した。この考え方はエンゲルスに強く影響し、彼を通じてソ連の歴史学界にも継承された。
 タイラーやモーガンといった19世紀の人類学者、民族学者たちは、近代の未開社会と文明人の遠古の社会とをほぼ同質のものとみなしていた。そして未開社会それ自体を究明するためというよりも、文明人の遠古の社会を再構成する手段として調査した。20世紀に入ってからも、この方法論は、ドイツ、オーストリアの歴史民族学派の学者たち(グレープナー、ウィルヘルム・シュミットら)によって支持・練磨された。彼らの見解によると、近代の未開諸民族は、文化の複合体の型によっていくつかの文化圏Kulturkreisに分類されるが、これらの文化圏を発展的系列に並べると、遠古史の発展の諸段階が明らかになるというのである。
 前述のような進化論的また歴史民族学的な原始社会の研究は、遺物・遺跡の研究調査を通じて遠古の文化や社会の究明に著しい寄与をもたらした考古学と、新たに興隆した機能主義的民族学functionalistic ethnologyの挟撃にあって、方法論的に否定されるようになった。つまり民族学は、諸民族の社会や文化そのものを研究することを目的としており、遠古の社会を究明するための手段として研究さるべきではない、というのが新しい民族学(機能主義に始まり、複合形成論configurationismを経て現在の民族学に至る)の基本的な主張なのである。これらの新しい民族学者たちの間でも、「原始的」の語は用いられているけれども、それは早くアメリカのローウィの名著『原始社会』Primitive Society(1920)に明示されているとおり、近代の未開諸民族に関して使われているのである。
 遠古の社会と近代の未開諸民族の社会との間には、文化が低級であるという点で幾多の共通性が存するから、一方の研究が他の研究成果を参酌することは当然であるが、両者はいちおう別々に研究されるべきであるというのが、1940年代以後における欧米学界の著しい傾向となっている。
 近代の未開民族の社会は、その停滞性と外来のより進んだ文化ないし民族との接触とによって、遠古の社会に比べてひずみが大きく、複雑な様相を呈している。それゆえ、単に文化が低級であるという理由だけで、両者を「原始的」なる概念のなかに押し込めることは無理であるし、それは学問的な厳密さを欠く結果を招く。つまり「原始的」という用語は、一般概念(単に文化の低級性を意味するだけの)であって、歴史的概念ではないのである。
 遠古の社会は、少なくとも200万年に及んでおり、その悠久な期間には、いくつかの発展段階が認められる。狩猟、採集、漁労による獲得経済に生きた時代がもっとも古く、かつもっとも長い期間を占めたが、これにも、(1)火の使用を知らない時代、(2)まだ弓矢を考案しない時代、(3)弓矢を知って単独狩猟が行われ、かつ漁労が営まれた時代、といった細別がある。これに続いて、農耕、牧畜が始まり(生産経済)、冶金術が行われ始めた初期農耕時代がくるが、近年、こうした初期農耕文化の様相は、オリエントをはじめとして、旧大陸の各地で急速に明らかにされつつある。この方面での研究調査のおもな担い手は考古学であって、民族学の研究成果は、遠古の社会の研究について参考にされるだけである。
 これまで述べたとおり、欧米学界では、「原始社会」という概念は、近代・現代の未開社会について用いられている。遠古の社会には適用されなくなっているから、そこには「原始時代」という用語はみられない。遠古の歴史や社会に関して「原始時代」「原始社会」の語を用いているのは、日本、韓国、中国くらいであろう。ソ連の学者たちは、遠古の社会をさすときは「原初的」первобытный/pervobtny (ロシア語)を、近代の未開社会については「原始的」примитивный/primitivny (ロシア語)という形容詞を用い、両者を厳重に使い分けている。

日本とアメリカの「原始社会」研究


 敗戦時までの日本史の一般的な時代区分は、神代(または先史)→古代→中世……であった。戦後、神話の史実性が否定され、一方では考古学的研究調査が躍進すると、「神代」または「先史」は、「原始」に置き換えられ、原始→古代→中世……といった時代区分が流行をみるに至った。これは、世界における歴史学的研究の動向からすれば、大勢に逆行する時代区分であるといえる。しかも、性格を異にする三つの時代――先土器時代、縄文時代、弥生(やよい)時代――を「原始時代」という一つの概念のなかに押し込めている点には、大きな無理がある。また日本の学者は、マルクスの「原生的共産社会」urwchsige kommunistische Gesellschaftを「原始(的)共産社会」と訳すことによって大きな過ちを冒している。
 アメリカ大陸では事情がやや異なっている。ここでは、前コロンブス諸文化Pre-Colombian culturesは、旧石器時代後期の前半にはさかのぼらないし、またエジプト、メソポタミア、中国、インドなどにみる王朝文化の段階にまで発展せずに終わった。しかもアメリカの遠古の諸文化は、なんらの断絶ないし溝渠(こうきょ)なしにインディオIndioの諸文化に接続または移行している。つまりアメリカ大陸では、遠古の社会と近代の未開社会の間には区別がみられない。こうした背景のもとに、アメリカでは、形質人類学、いわゆる「先史学」ないし考古学、言語学、社会学、人間生態学human ecology、民族学、心理学、宗教学などを包括した総合学としての(文化)人類学が提唱され、その視点からインディオの古代から現在に至る文化や社会を研究しようとする傾向が顕著である。近年では、インディオの未開文化の研究調査に、新進化論を背景とし、自然科学的な諸方法を駆使した新考古学new archaeologyが大きな役割を果たしつつある。しかしこれらの文化人類学者たちの間でも、アメリカの遠古の社会を「原始社会」としてとらえようとは試みられていないのである。

(日本大百科全書)

奴隷制の概念


 奴隷制とは、一個の人格が他の人格=その労働力を所有し、支配・搾取する制度であり、所有された人格は、ローマのウァルローが奴隷を「ことばをしゃべる道具」instrumentum vocaleとよんだように、その人格性を否認され、物とみなされる。この直接生産者である奴隷を、奴隷所有者が所有し、暴力的に支配して強制的に物質的生産を行わせることを、奴隷制生産方法とよぶ。奴隷制は、古代社会において、オリエント、インド、中国、日本、ギリシア、ローマなどで存在したが、近代においても南北アメリカや植民地などのプランテーションで存在しえた。一つの社会の物質的生産(とくに農業生産)において、奴隷制が決定的な役割を果たした社会を奴隷制社会とよぶが、こうした意味では古代社会こそが奴隷制社会であり、原始社会の崩壊とともに成立した最初の階級社会であると把握された。しかし、オリエント、中国、日本などの古代社会では、奴隷は存在するが、彼らは生産の重要な部分を担当したとはいえず、農民が国家によって奴隷制的に把握された総体的奴隷制allgemeine Sklavereiであるとされている。同じ奴隷制社会といっても、奴隷制が典型的に展開したギリシア・ローマの社会とは異なった特徴をもっている。
 しかし、この奴隷制把握に太田秀通(ひでみち)は異議を唱えている。太田は奴隷制概念を検討し、奴隷を従来の把握に加えて、共同体との関係でとらえ、自己の共同体を失った隷属民を奴隷、共同体をもつ者を隷属農民として範疇(はんちゅう)的に区別した。この見解では、従来、総体的奴隷制ととらえられていたオリエントなどの古代社会は、この隷属農民を主要な生産者としているので、マルクスが『経済学批判』の序言で表示したアジア的生産様式として規定されている。


荘園(しょうえん)領主・大名など地域的権力者が、経済外的強制すなわち軍事力や政治権力によって、住民(とくに農民)の自由を奪い、高率の地代を課する体制。
西洋


 西ヨーロッパで10世紀前後の古典荘園に所属し、荘園領主から農地を借りて保有(永代小作)した農民は、コロヌス(半自由人)、奴隷など隷属的な身分称呼を付された者が多く、毎週3日の賦役を課された者も少なくない。そのため古典荘園農民を「農奴」とし、この時代に農奴制が確立したとする見解が、通説となっている。またほぼ13世紀以後の地代荘園についても、生産物、貨幣の地代負担が過重だったという理由から、各国に広く農奴制が存続した、といわれる。しかし史料からは、この通説はかならずしも支持できない。
(1)古典荘園の標準的農民は、フランス、ドイツとも1フーフェ(10~15ヘクタール)または半フーフェの麦畑を保有する階層であった。しかし彼らフーフェ保有農は、ウォルムス司教領荘民団規則(グリムJ. Grimm編『村法類』Weisthmer第1巻)によれば、明らかに奴隷を所有する富農で、領主と同じ支配階級に属した。したがって1フーフェ当り毎週3日の賦役も、一見過重のようで、実はそれほどではなく、多くの場合、富農は自家の奴隷労働力の10分の1程度を提供したにすぎなかった。
(2)フランスでは11世紀ごろから地代荘園が成立したが、その最大の特色は、小農民階層の広範な形成である。すなわち標準的な荘園農民は旧フーフェの4分の 1(約3ヘクタール)を保有したにすぎず、これを小家族の家族労働のみによって耕作した。他方、領主は、12世紀ごろまでは従来どおり多数の奴隷を所有し、かつその一部に武装させて、これを軍事力の基盤とした。そのため領主は、無力な小農民を抑圧し、過酷な「恣意(しい)タイユ」(恣意地代)をはじめ、人頭税、十分の一税などの地代を課し、地代の合計は全生産物の3分の1以上に達した。領主はさらに農民に対する裁判権を強化し、農民の自由を奪って、地代の増徴を図った。かくて荘園農民は、法律上、多くは荘民(ビランvilain)という自由人身分を認められたにもかかわらず、事実上、不自由な永代小作人とされ、一般には農奴(セルフserf)とよばれるに至った。
(3)ドイツでは、13世紀以降の、いわゆる地代荘園においても、依然としてフーフェ保有農が中核をなした。グリム編およびオーストリア共和国学士院編の『村法類』によれば、彼ら富農は、大家族の家長として傍系血族を支配するとともに、自家の下人(げにん)に懲罰権を振るってこれを酷使し、まさしく家父長的奴隷所有者であった。富農はまた領主の裁判権に制約を加え、殺人犯には仇討 (あだうち)を原則として、しばしば被害者、犯人双方の親族団が交戦した。さらに富農は、自家への侵入者をその場で殺す権利をもち、あるいは逆に自家に避難してきたものを保護するアジールAsyl権を有した。それゆえ中世および近世のドイツ荘園農民を農奴とみるのは、とうてい無理である。
 東北ドイツでは16世紀以後、古典荘園に似たグーツヘルシャフトが成立して農奴制が広まったといわれる。しかしそこにも富農が存在し、とくに東プロイセンにはクルムKulm法によって下人懲罰権などの特権を認められたドイツ系の富農が多かった。他方スラブ系の貧農も多く、彼らは領主から過重な賦役を課せられ、フランスの農奴よりさらに惨めな地位にあった。西南ドイツはやや例外で、12世紀から17世紀までの間に、家父長的な富農が姿を消し、しだいに農奴制が成立した。
(4)イギリスでは1086年の全国的土地調査の結果作成された『ドゥームズデー・ブック』(Domesday Book最後の審判日の書の意味)によれば、各荘園には自由人、奴隷などさまざまな身分の農民がいたが、その後しだいにビレインvillain(荘民の意味)という身分に統一された。地代は、南東部では賦役が、中部・北西部では貨幣地代が、それぞれ優勢で、いずれも13世紀ごろまでに増額された。こうしてビレイン身分農民に代表される農奴階級が形成され、農奴制が成立した、といわれる。ただし13世紀のビレインのなかには、なお一バーゲート virgate(10ヘクタール前後)という広い麦畑を保有し大家族の家長である富農も、各地に残存した。したがってビレインを一様に農奴とみるのは問題で、農奴制の確立期を14世紀とする見解も成り立つ。
(5)ロシアでは、16世紀までに、農民は各所属荘園からの移動を禁ぜられて不自由身分となり、その結果全国的に農奴制が成立した、といわれる。しかし農民のなかには、トルストイの小説『戦争と平和』の主要人物ピエールのいうような大家族制を背景として、その家長たる富農も、中世以来広く存在した。それゆえ、レーニンがその著『ロシアにおける資本主義の発達』で、19世紀の富農を一様に新興の農業資本家とみたのは誤りであり、またそれ以前のロシア農民をすべて農奴とする通説も、再検討の必要がある。
農奴解放


 農奴の解放には、下からの解放(フランス・イギリス型)と上からの解放(東北ドイツ・ロシア型)との二類型がある。
 フランスでは13世紀ごろ、「恣意タイユ」の定額化、人頭税の有償廃棄が実現した。とくに後者は農奴解放とよばれることもあるが、実態は農奴制の部分的緩和にすぎず、百年戦争の開始とともに地代はふたたび増大した。これに対して1358年大農民反乱「ジャクリーの乱」が起こり、領主階級は、反乱を鎮圧したが、その後は地代の増徴を手控えた。さらにペストの流行による農村人口の激減に対応して地代軽減策がとられたので、16世紀以後、事実上の自由農民ラブルールlaboureurが数を増し、そのなかから農業資本家さえ現れた。こうして農奴の反抗と社会経済上の変化とによって、18世紀中ごろまでに「下からの解放」が進み、それはフランス革命によってほぼ完成された。
 イギリスでも1381年ワット・タイラーWat Tylerの率いる大農民反乱が起こった。反乱鎮圧後やはり農民の地位はしだいに改善され、とくに賦役の定額銀納化、ついで新大陸からの銀の流入による銀貨価値の低下、したがって地代の実質的軽減のため、16世紀には事実上の自由農民ヨーマンyeomanが多数出現した。さらにそのなかから牧羊業や毛織物マニュファクチュアを経営する産業資本家が生まれ、農村に広く資本主義がおこった。こうして17世紀前半までに農奴解放が進み、ピューリタン革命の素地をつくった。
 東北ドイツのプロイセン王国では、19世紀前半、政府が農業改革を行い、農民の保有地を所有地に変え、賦役を廃止して、「上からの農奴解放」を試みた。しかし、いわゆる農奴のうち、富農は、改革の前後を通じて家父長的な性格を変えず、貧農は逆に、賦役廃止の代償として、自己の所有地の一部を旧領主に奪われた。そのため貧農は、旧領主ユンカーJunkerの旧直営地ユンカー農場で、低賃銀労働を強制され、依然として奴隷に近い地位に置かれた。
 ロシアでも1861年皇帝アレクサンドル2世が農奴解放令を発布し、農民に移動の自由を与え、農地の所有権を認めた。しかし旧領主は、解放の代償として、農民の所有地取得を制限し、自己の所有地を拡大した。そのため貧農の生活は改善されず、彼らはその後ロシア革命に参加するに至った。他方、富農は、解放の実施機関となった農村共同体を事実上支配して、ロシア革命後も勢力を保ち、レーニンをして社会主義政策の修正、ネップを余儀なくさせた。
[橡川一朗]
日本


 農奴制は、中世の封建支配者が農民を身分的に隷属させ、土地に緊縛して、それから夫役や年貢を収取する制度と考えられ、ヨーロッパの中世社会に具体的に存在した農奴のあり方を基準としつつ、一般概念として抽象化・理念化された歴史学の範疇(はんちゅう)である。このような歴史学的範疇としての農奴制概念を日本歴史に適用することによって、日本封建社会の歴史を国際的に共通の尺度で見直そうという試みは、第二次世界大戦後の科学的歴史学において活発に行われた。その際、江戸時代の平均的農民が、直系小家族の自営農で、かつ幕藩領主によって土地緊縛されているところから、これを広義における農奴とみ、かつ生産物地代負担という点から、狭くは隷属と規定するのが妥当とする点ではほとんど異論がなかった。
 これに対して江戸以前の中世については、農民の存在形態が複雑なため、農奴制概念の適用をめぐってはさまざまの異説が提起され、論争が繰り返されている。すなわち中世の荘園(しょうえん)制下の中核的農民である名主(みょうしゅ)層では、多くの場合、しばしばその家の構成員が「親類・下人(げにん)」と表現されるように、傍系親族や非血縁の下人を含んでおり、論者によってはこれを家父長制大家族といい、他の論者は家父長的奴隷制と規定し、直系家族の小家族を基本とする農奴とは区別すべきであると考えた。しかも、そこでの問題となる下人も、現実には家族の構成を許されず売買の対象になる奴隷から、家族を構成し、主家の外部に小屋をもって半独立の経営をもつ者までを含むため、そうした家族もち下人こそ農奴とみるべきだという説も提起された。また一方、多少の傍系親族や下人を含んでも名主の直系家族自体が農業労働に従事している限り、傍系家族・下人も含め名主家族そのものを広義の農奴の一存在形態とみてよいという説も出されており、今日のところ共通見解に到達していないのが現状である。

(デジタル大辞泉)
ほうけん‐しゅぎ【封建主義】 ほう‐けん【封建】

封土の授与を基礎として封建領主とその臣下との間に成立する主従関係。また、その関係が社会構造の基本であるとする主張。

ほうけん‐せいど【封建制度】 ほう‐けん【封建】

1 天子がその領土を諸侯に与え、さらに諸侯はそれを臣下に分与して、各自にその領内の政治を行わせる制度。中国で周代に行われた。→郡県制

2 中世社会の基本的な支配形態。封土の給与とその代償としての忠勤奉仕を基礎として成立する、国王・領主・家臣の間の主従関係に基づく統治制度。また、領主が生産者である農民を身分的に支配する社会経済制度。

(日本大百科全書)
feudalism

封建の語は中国に古くからあり、郡県との対比において周代の国家体制をさした。わが国ではこれを受けて、封建の語はもともと近世の幕藩体制をさして用いられた。しかし明治以降、欧米の学問が輸入されるに及び、いち早くそれらの国家体制と西欧中世のフューダリズムとの類似性に着目された結果、後者に対して封建制(度)の訳語があてられることになった。今日では、少なくとも西欧の事象に関する限り、封建制という語が用いられる場合、フューダリズムの邦訳と考えて間違いがない。
 しかるに、この意味での封建制(フューダリズム)が、すでにきわめて多義的であり、大別して少なくとも三つの用語法を区別しなくてはならない。第一に、レーン(封土)の授受を伴う主従関係をさす場合(狭義の封建制、ないし法制史的封建制概念)。第二に、荘園(しょうえん)制ないし領主制(農奴制)をさす場合(社会経済史的ないし社会構成史的封建制概念)。第三に、前二者をその構成要素とする社会全体をさす場合(社会類型としての封建制概念)。しかし、第三のものについては「封建(制)社会」の語をあてうるし、第二の用語法では、フューダリズムの語源となったfeodum(レーン)との関係が見失われている。さらに、中世ヨーロッパの歴史的個性は、狭義の封建制を抜きにしては語れない。以下、西欧の学界における支配的な用語法に即して、第一の概念を中心にして解説するゆえんである。


しほん‐しゅぎ【資本主義】

封建制度に次いで現れ、産業革命によって確立された経済体制。生産手段を資本として私有する資本家が、自己の労働力以外に売るものを持たない労働者から労働力を商品として買い、それを上回る価値を持つ商品を生産して利潤を得る経済構造。生産活動は利潤追求を原動力とする市場メカニズムによって運営される。キャピタリズム。

【生産手段】 せい‐さん【生産】

生産過程において、労働と結合して生産物を産出するために消費・使用される物的要素。労働対象(原材料・土地・樹木・鉱石など)と労働手段(道具・機械・建物・道路など)とからなる。


日本大百科全書
【資本主義】

capitalism 英語
Kapitalismus ドイツ語
capitalisme フランス語

生産のための組織が資本によってつくられている経済体制。すなわち、資本制企業が物財やサービスの生産・流通の主体になっている経済体制であり、資本制経済ともよぶ。日本、アメリカ合衆国、西ヨーロッパ諸国など、いわゆる「西側の先進国」の経済体制は、資本主義である。
経済体制としての資本主義


 資本主義という用語は、資本が生産活動の主体となっている経済体制・経済システムをさすもので、主義・主張・思想をさすわけではない。アルコホリズム alcoholismということばがアルコール主義ではなくてアルコール中毒という状態を示すものであるのと同様に、資本制経済という体制を意味することばである。この経済体制を肯定したり擁護したり推進したりする思想・主張をさすためには、「自由主義」という用語が使われるのが普通である。資本による企業設立の自由、その企業による営業活動の自由を主張する自由主義の立場からは、資本主義という用語を忌避して、「自由経済」とよぶことが少なくない。
 資本主義の構造と動態の解明のうえでもっとも大きな影響力を及ぼしてきた理論はカール・マルクスの理論であるが、その主著『資本論』においてマルクスは、資本主義ということばは使わず、「資本家的(もしくは資本主義的、あるいは資本制的)生産様式kapitalistische Produktionsweise」という表現を用いている。マルクスの考えでは、資本主義は、人類が歴史的に経験してきたさまざまな生産様式の一つであり、また永遠に存続していく最後の生産様式であるわけではない。歴史のなかで新しく誕生しやがて歴史のなかに消えていく一つの生産様式(経済体制)という性格を強調するためには、資本主義とよぶよりも「資本家的生産様式」という用語のほうがふさわしいと思われたのだろう。
資本主義の基本構造


経済体制の編成原理


 生存のためには生産が不可欠である。その生産のためには、労働をしなければならない。労働をする人間の肉体と精神の力である労働力、その労働が向けられる自然や素材などの対象、すなわち労働対象、そして労働をするときに人間が使う道具や機械、すなわち人間の肉体と精神の力の拡充・延長・外在化である労働手段、この三者が結び付いて生産が行われる。
 労働対象と労働手段とをあわせて生産手段とよぶが、その生産手段の所有者が社会のなかの特定の人々だけに限られているのが階級社会である。階級社会では、労働する者は生産手段を所有せず、その意味で両者は分離しているので、なんらかの仕方でこの両者を結合させなければ生産が行えない。その分離の仕方と結合の仕方とが、経済体制の違いをつくりだす。奴隷制では、労働する人間は生産手段所有者の所有物である。この場合には、生産手段所有者にとって両者は分離しておらず、初めから結合している。農奴制もしくは地主制では、労働する人はもはや生産手段所有者の所有物ではなくなっているけれども、身分的隷属と移動の自由の制限によって、生産手段に緊縛されている。これらに対し、いわゆる封建的制約を打破し、個人の自由を価値原理として世界史の近代が始まるなかで成立する資本制は、労働力は個々人の肉体と精神のうちに実存するものであり、個々人の所有するものであることを承認した経済体制である。生産手段所有に対して労働力所有が初めて自立化した体制である。労働力の自己所有を承認された人間が労働者であり、奴隷や農奴は労働者ではない。
労働力の商品化と資本化


 労働者が生存のために必要な物を手に入れるには労働しなければならない。しかし彼らには生産手段がないのだから、生産手段所有者に労働力を提供しなければならない。生産手段所有者のほうも、労働力を入手しなければ生産を行うことができない。両者の結合は、労働力を商品として売買することによって行われる。なぜ商品になるかといえば、自分の所有物を自分の意思で対価と引き換えに提供しあうのだからである。労働力は「賃金」という対価と引き換えに資本によって買われ、資本の力能となる。商品化した労働力は、買い手が資本である限り、資本化する。労働者は、自分の労働をするのではなく、資本の命ずるところを、資本の力を構成する要素として、労働する。資本の所有単位である企業は、このようにして労働力を自分の力として掌握し、生産手段と結合させて生産を行う。しかし、労働力は人間の肉体と精神のうちに実存するものである以上、その支出の仕方は、人間の意思から切り離しえない。その意味で、労働力という商品は、資本の側からすれば、形式的には買うことができるが、実質的には「買い切れない」要素をもつ商品である。資本制企業にとって労務管理の問題が最重要の課題になるのはそのためである。
 どんな経済体制でも、生産活動をするためには人間は共同して労働する。したがって共同労働の組織化が必要となる。以上の特質は、共同労働の組織化という面での資本主義の特質にほかならない。
市場メカニズムと資本主義


 次に、生産された物がどのようにして人々の間に分配されるかという面からも、資本主義という経済体制の特質をみることができる。この面からの特徴として指摘できるのは、商品売買を通じて分配が行われるということである。
 人々の間での分配というとき、二つの側面がある。一つは、生産活動に携わったことによって生活資料を獲得できるようにする対人分配であり、もう一つは、その生産活動を継続していくために必要な条件を満たすという機能的分配である。そのどちらも、究極的には商品売買、したがって市場メカニズムを通じて行われるというのが、資本主義の特質である。まず第一に、個々の資本制企業は、何をどれだけどのように生産するかを自分の意思で決定することができる。第二に、それらの生産物は、不特定多数の人々に、対価と引き換えに提供するつもりで供給される。すなわち商品として生産され、商品として供給される。しかし、生産したものが、予定した価格で確実に売れるという保証はない。それは、買い手の選択と評価にさらされる。このように、作り手が不特定多数の相手の需要を想定しながら生産し、生産されたものを自分の意思で選択できる関係を市場関係といい、市場関係で需要と供給を一致させるように作用するメカニズムを市場メカニズムという。
 労働者個々人に対してどれだけの賃金を支払うかということも、もちろん分配問題であり、それは資本が決定する。しかし、労働者が手に入れたその賃金で何をどれだけ買うかということが、対人分配を完結させる。そしてまた、資本制企業は、社会的分業の下、生産の継続に必要な労働力や生産財を市場で買わなければならない。そうした生産要素の補充ができるかどうかが、機能的分配という問題である。資本制企業は、互いに相手の生産した商品を買い合ってそのような補充を行うわけだが、それらが買えるためには、自分の生産した商品が売れて所要の資金が手に入るのでなければならない。その意味で機能的分配も市場を通じて行われる。しかし、市場で需給が一致する保証はない。価格の変動や供給量の調節によってその需給一致が図られるのが市場メカニズムである。しかし、たとえば、価格上昇によって市場での需給が一致するようになったというときには、実は価格が高くなると買えなくなってしまう人を排除したから需給が一致できたのだと解釈することができる。
 市場メカニズムは、人々の選択・選好に応じた資源配分を実現できるものだと評価し、この市場メカニズムに適合する生産様式は資本主義であると考えて資本主義を擁護する立場があるが、市場メカニズムはお金による投票で事を決めていくシステムなのだから、お金の分配が公平でなければ、その投票結果も人々のニーズや選好を純粋に反映したものとはいえないだろう。また、資本主義を否定するためには市場メカニズムを否定しなければならないとする考え方も、資本主義と市場メカニズムとを同一視する点で、同じ誤りに陥っている。むしろ、資本主義という経済体制と市場関係およびそのメカニズムとがどのような構造的連関をもっているか、ということこそが問われるべきであり、この点に関しては、「社会主義」を名のる体制が登場して以降、「社会主義における市場」の問題というかたちでも議論されてきた。
資本主義の成立・発展と展望


 資本主義という経済体制は、人々がそういうものをつくろうと意図的に努力してつくったものではない。たとえば、フランス大革命のスローガン「自由・平等・博愛」は近代を切り開いたスローガンであるが、資本主義は、営利の自由と餓死する自由をつくりだしたけれども、平等と博愛とを実現しえていない。マックス・ウェーバーは、これとは異なる脈絡のなかでだが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、資本主義は「意図せざる結果」として生み落とされたと主張している。しかしともあれ、近代に至って人々が相互に承認しあった個人の自由は、経済活動に大きな生産力の拡大をもたらし、それを営利の自由として取り込んだ資本主義は、かつてない生産技術の展開を工場制工業として実現し、物的生産の大々的拡大によって生活を変革してきた。その間、厳しい労資の階級間対立があり、恐慌があり、失業があり、帝国主義戦争があったが、経済体制としての資本主義は、「西側自由主義国」の内部では第二次世界大戦後、かえって「意図的に望ましいとされるもの」になっている。イデオロギーとしての資本主義は強化されたともいえる状況にある。
 そうなったについては、なによりも資本主義が内包する柔構造的性格が大きく作用している。賃金は資本にとってはコストだから、資本はこれをできるだけ押さえ込みたい。しかし、労働者は、資本の生産物のうち消費財にとっては最大の買い手である。労働者の消費の源泉となる賃金所得は、資本にとって需要の源泉としての性格をもっているから、これをあまりに低く押さえすぎることは自縄自縛となる。その限りで、資本主義のもとで、労働者の生活の向上が可能となる。資本制企業はまた資本金拡大のために株式会社の形態をとるようになる。労働者階級もまた株を買い、出資者としての利益配分にあずかるルートができる。前者は資本主義が市場関係に依拠しているがゆえの柔構造だし、後者は資本による労働の組織化に内包されている柔構造とみることができる。こうした柔構造による成果配分が、労働疎外のような否定面をカバーするだけの魅力と受け取られる限り、資本主義は、経済体制としての安定性を確保することができよう。しかし、市場におけるお金の民主主義が問い直され、「民主主義は工場の門前に立ちすくむ」といわれるような企業内での専制主義が問い直されるようになれば、資本による経済の組織化体制としての資本主義は、揺らぎださざるをえないだろう。
[岸本重陳・植村博恭]

社会主義
socialism 英語
socialisme フランス語
Sozialismus ドイツ語
социализм / sotsializm ロシア語

社会主義ということばはまず最初に 1827年にイギリスのオーエン派の出版物にsocialismとして登場し、これとは独立して32年にフランスのフーリエ派の出版物に socialismeとして登場した。ヨーロッパ諸国の社会思想に大きな影響を与えたのは、フランスのsocialismeなので、フランス語がヨーロッパ語系諸国の社会主義を示すことばの共通語源とされている。社会主義は、社会の富の生産に必要な財産の社会による所有と、労働に基礎を置く公正な社会を実現するという思想として生まれた。思想と運動の歴史での社会主義と共産主義の区別は厳格ではないが、一般に共産主義は、社会主義がさらに発展した平等な社会として理解されてきた。1991年のソ連崩壊、東欧の雪崩(なだれ)的な体制変革によって、思想、運動の両面にわたって揺らいでいる。

No comments: