Tuesday, January 27, 2009

市場経済

しじょう‐けいざい〔シヂヤウ‐〕【市場経済】 し‐じょう【市場】

個々の経済主体が自由に経済活動を行い、財・サービスの需要と供給は市場機構によって社会的に調整される経済制度。→計画経済

けいかく‐けいざい〔ケイクワク‐〕【計画経済】 けい‐かく【計画】

一国の経済活動全般が、中央政府の意思のもとに計画的に管理・運営される経済体制。生産手段を公有化した社会主義国家経済の特徴の一つ。

日本大百科全書
計画経済
けいかくけいざい
目次:
計画経済
1. 計画経済の思想
2. 計画経済の基本問題
3. 分権的計画経済の構想
4. 混合経済システム

planned economy 英語
Planwirtschaft ドイツ語
conomie planifie フランス語
плановое хозяйство / planovoe hozyaystvo ロシア語

本来的には、経済発展が自然成長的に行われるのではなく、社会の側からの「意識的制御」のもとに置かれているような国民経済をいう。現実には、この「意識的制御」は国家が策定する計画とその実施に対する国家的コントロールという形をとり、ソ連の例にみるように、生産、流通、分配のほとんどすべてが集権的な中央計画の統制下に置かれるというのが従来の通例であったが、それだけが意識的制御の唯一の形態ではない。労働者自主管理と市場経済を結合したユーゴスラビアの経済システムはすでに1950年代にソ連型の集権的計画経済モデルから離脱しているし、ハンガリーは68年の経済改革で基本的に分権モデルに移行した。その他のソ連、東欧諸国でも、集権制はいくらか緩和の方向に向かい、70年代末からは、より市場志向の強い「第三波」改革がハンガリーで開始された。これに小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)改革下の中国、ついでペレストロイカ下のソ連が合流し「市場社会主義」に接近するかに思われたが、この流れも89年の「東欧革命」、91年の「新ロシア革命」による政治主導の体制転換で中断され、計画経済体制が崩壊することになった。ひとり「社会主義市場経済」を掲げる中国の経済体制も計画経済イメージとはきわめて異なる「市場社会主義」の一種といえよう。
計画経済の思想


 社会(人間)による経済発展の意識的制御という思想を社会主義と結び付けたのは、いうまでもなくマルクスとエンゲルスである。彼らは将来社会の詳細な青写真を描くことにはきわめて禁欲的であったが、自分たちの主要な課題とした資本主義経済の運動法則の解明から引き出される限りで、将来社会の一般的な機能原理の問題を提起した。その核心をなすのが、商品生産、市場機構の除去によって社会的な生産を社会の意識的・計画的制御のもとに置くという構想である。
 およそどのような社会も、利用可能な生産要素(労働と設備、資材などの生産手段)を社会のさまざまな欲望に応じて各種の部門に配分(資源配分)することが必要であるし、また、経済社会の進歩を前提とする限り、社会的な労働生産性(効率)を絶えず向上させることが必要となる。生産手段の私的所有に基づく資本主義経済のもとでは、この資源配分と効率向上という二つの課題は、基本的には市場機構によって処理される。市場でより有利に売れるものの生産に社会の資源が移動してゆき、社会のさまざまな欲望に見合った産出構造がつくりあげられていく。同時に超過利潤を得ようとする個別資本の競争を通じて、社会的生産コストの低下が図られる。しかしながら、以上はいずれも市場での需給と価格の変動を通じて行われるから、必然的に事後的かつ自然成長的な調整過程となり、恐慌や破産、失業のような社会的浪費を伴わずにはいない。
 これに反し、生産手段を社会的所有に移した社会主義のもとでは、物質的財貨の生産、流通、分配は社会の意識的な制御のもとに置かれ、経済発展はあらかじめ作成された国民経済計画に基づいて行われる。したがって、資本主義のもとでの間接的、事後的、自然成長的な資源配分と社会的分業の調整様式にかわって、経済社会全体を「一つの工場」のように組織することができる、というのが、マルクス、エンゲルスの社会主義経済像であった。そこでは、資本主義と社会主義という体制上の違いがそのまま、「市場」と「計画」という経済調整機構の原理的対立(両者の非両立性)と結び付けられていたと考えることができる。この考え方からすれば、社会主義=計画経済=非市場的経済ととらえられていたとしても、不思議ではない。
計画経済の基本問題


 ソ連型の集権的な計画経済制度が成立したのは、(1)以上のような社会主義経済観、(2)革命直後の戦時共産主義の経験と、(3)とりわけ後進国における重工業・国防優先の急速な工業化戦略が資源配分の極度の集中を必要としたという歴史的事情によるものであった。意思決定が高度に集権化され、市場的要素が極度に排除されているのがその特徴であり、その限りで古典の社会主義像に合致しているように思われた。しかしながら、集権型の計画経済は、経済水準が低く、産業構造や産業連関が比較的単純な段階ではまだしも操作可能であるが、経済が高度化し複雑化した段階では、情報処理だけから考えてみても、計画的制御は逆に困難となり、官僚主義的煩瑣(はんさ)化や効率低下といった否定的結果をもたらす。スターリン批判後の経済改革論争のなかで、この点に関してはほぼ完全な同意が得られた。
 現実の計画経済において「一つの工場」イメージが成り立たない理由は、次の4点にある。第一は不可知性で、計画当局は全知全能ではなく、経済にはつねにブラックボックス的部分が伴うが、経済の高度化、複雑化につれて、このブラックボックス的部分はむしろ増大する傾向にある。第二はデータ処理技術の不備性で、最新の数理的技法とコンピュータを駆使しても、社会の多様なニーズを盛り込んだ整合的な中央計画作成という課題を解くことはできない。第三は「複雑性」で、経済を構成しているのは、ある単一の目的で統合されたオーケストラやスポーツのチームではなく、それぞれ独自の部分的利益を追求するミクロ経済主体の「連合」であるということである。この点を無視した過剰制御は、利害の背反から、逆に経済の制御可能性を低め、浪費や非効率の源泉となる。第四に、先に触れた資源配分と効率向上という、いかなる体制にも共通する二つの課題を計画化で正しく処理するためには、計画化が正確な社会的労働計算に立脚しなければならないが、現物タームの直接労働計算は不可能であるから、価格的指標の適切な利用が不可欠となる。非市場的経済という古典の社会主義像と反対に、価格、利潤、利子といった市場経済のカテゴリーを計画経済が利用せざるをえない理由は、ここにある。計画経済における周知の浪費と非効率は、以上四つの基本問題に適切な解決が与えられていないことによるものであった。
分権的計画経済の構想


 以上のように考えれば、スターリン批判後の論争と経済改革が、意思決定の分権化の問題と並んで、市場機構の利用の問題をもう一つの軸として転回してきたのは、当然というほかはない。分権的計画経済は、国民経済の構造と発展方向を決めるような重要なマクロ経済的意思決定は中央が握りながら、企業の自律性を認め、ミクロ経済活動を中央の決める「ゲームのルール」の枠内で市場にゆだねる構想にたっている。それは、中央計画によるマクロ経済的意思決定の枠組みのなかで、サブシステムとして市場機構を利用しようとするもので、資本主義への体制的接近をただちに意味するものではないとされていた。
 伝統的な集権的計画経済モデルと分権モデルとを分かつ境界線は、通常、中央計画を多数の義務的計画指標に分解して企業に下達する指令方式が廃止されるか否か、この指令方式の背骨をなしている生産財の行政的配分制が廃止されるか否か、にあると考えられている。この基準からすれば、ユーゴスラビアはもちろんのこと、ハンガリーも早くから境界線を越えていたが、その他の諸国は部分的分権システムないし緩和された集権制の枠内にとどまっていた。その枠内でも義務的指標の数はしだいに削減され、価格的な指標の利用がより比重を増す方向にあるが、後者は依然前者にリンクされていたのが、1980年代末の体制転換までの顕著な特徴であった。これに反しハンガリーでは、1980年代に開始された経済改革の新しい波のなかで、より市場化を強める方向をとり、他方、社会主義的市場経済といわれるユーゴスラビアでは、下からの協議システムと地方分権化の見返りに計画的制御の弱さが、70年代末から表面化した経済困難のなかで批判の対象となっていた。
混合経済システム


 古典的な計画経済の「一つの工場」イメージは、別のことばでいうと、単一の国有・国営経済に無限に接近するのが社会主義計画経済の完成であるという考え方であったが、1980年代にはハンガリーと中国とを先頭にして、これと逆の方向で経済システムを設計しようとする注目すべき動きが進行した。農家レベルの生産責任制で事実上の小農制に移行し、経済特区・開発区を拠点とする大胆な対外開放政策を採用した中国と、ハンガリーとの間の差異は少なくなかったが、共通するのは、公有制を基本としながらも、国有(公有)企業、協同組合企業、小規模集団有企業、私企業といった多様な所有形態と、所有と経営の分離(たとえば公有企業の入札請負制)による多様な経営形態とを組み合わせ、「社会主義型の混合経済体制」を志向する動きであった。そのなかには経済活性化のためにとられた便宜的な方策もあるが、社会主義計画経済の実行可能なシステムが、こうした混合経済システムに収斂(しゅうれん)しつつあることの意味は大きかった。
 混合経済体制化で市場社会主義に接近しつつあった1980年代の流れは、論理をつきつめれば「体制転換」を内包(たとえば私的セクターの大胆な拡大の主張)していたが、直接的には1989年の東欧革命による政治体制の大転換で中断された。ソ連型の社会主義では一党制支配と指令的計画経済とは不可分であったから、前者の崩壊は同時に後者の崩壊となった。しかし、それにかわって現代的な制度化された市場経済がただちに生まれるわけではないから、現状は依然、特異な移行期経済である。国により違いは少なくないが、民営化されたといっても擬似私企業、擬似国有企業の比重が依然として高い。こうしたなかで、体制転換初期の自由経済ユーフォリア(陶酔感)にかわり、移行期経済における「政府の役割」を改めて見直す動きが強まっている。
[佐藤経明]


市場
しじょう
目次:
市場
1. 市場の失敗market failure

market 英語
march フランス語
Markt ドイツ語

財・サービスが取引されて価格が決定される場あるいは機構をいう。市場という概念は多様に用いられ、その種類も多い。特定の具体的な場所にある中央卸売市場、証券取引所、商品取引所などは具体的市場とよばれる。俗にマーケットとよばれる小売市場や公設市場も含まれるが、この場合は普通、市場(いちば)とよばれる。また経済の未発達な時代に交換あるいは売買の行われた場所をとくに市(いち)という。
 しかし、経済が高度化し、通信技術の進歩や信用取引の発達した現代では、むしろ特定の場所に制約されない抽象的市場が多い。国内市場、国際市場、世界市場という場合がその例である。また、取引対象による生産要素市場と生産物市場、グループ別の金融市場・労働市場などもこの範疇(はんちゅう)に属する。現代では、具体的市場は、国内市場や世界市場などの抽象的市場を背景とし、その影響のもとに具体的な取引を進めているのである。
 経済学では、市場の本質的な機能は、財・サービスの供給者と需要者との間の需給関係を反映して価格が形成され、その結果、財・サービスの適正な配分が実現される点にあると考える。
 完全競争が行われている生産物市場を考えてみよう。財・サービスに対する需要量がその供給量を上回る(超過需要が存在する)状態のときには、そのような市場の状態を反映して価格は上昇する。逆に供給量が需要量を上回る(超過供給が存在する)ときには、価格は下落する。そして需給が一致するまで現実には取引はなされず、価格は変動する。需給が一致した状態(市場均衡の状態)において、初めて価格は決まり、財・サービスが取引される。このように完全競争においては、価格は財・サービスの需給調整機能を完全に果たしている。
市場の失敗market failure


 市場においてこのような需給調整機構がうまく働かない場合を市場の失敗とよぶ。この市場の失敗には、企業の支配力によるケースとそれ以外のケースとがある。第一のケースをみてみよう。現実の市場に目を向けると、自動車、鉄鋼、ビールなどの産業では、少数の企業が市場を支配しており、これらの企業の行動は、市場の価格形成に影響力をもっている。企業が支配力をもっている市場は、その程度に応じて独占、寡占、不完全競争市場とよばれるが、このような市場では、企業の支配力のために、完全競争の場合のように最適な資源配分は達成されず、生産が過少になってしまう。
 第二のケースとしては、公共財や外部効果の例があげられる。通常の財である私的財は、消費者がその所有権を手に入れないと消費できない。その所有権を手に入れる場所が市場である。しかし、道路、公園、消防・警察サービスなどの公共財は、その所有権を手に入れなくても消費が可能である。したがって公共財の場合には市場そのものが存在しない。また、外部効果とは、ある消費者や企業が、他の消費者や企業の行動によって、市場での取引を通さないで影響を受けることをいう。この外部効果が存在する場合には、私的便益(費用)が社会的便益(費用)と乖離(かいり)し、効率的な資源配分を達成できない。
 このような市場の失敗が生ずる場合には、市場の働きを補整し、社会的に適正な資源配分を実現するために、政府の経済政策による介入が必要となる。

市場論争
しじょうろんそう
目次:
市場論争

polemic on the market 英語
polmique sur les dbouchs フランス語
Polemik ber den Absatzmarkt ドイツ語

市場とは、日常一般には商品が交換され実現されるところをさすが、社会的分業・商品生産が発達してくると特定の場所・建物だけでなく、もっと抽象的・包括的概念として経済学に現れる。市場の形成・発達は微弱な地方分散的市場から始まってしだいに拡大し、広範な国内市場に達する。さらに外国市場を必要とするようになるが、このように資本主義が成立するとともに市場理論も生まれた。
 国内市場は資本主義の発展程度に制約され、生産に関しては生産手段と労働力に対する需要としての市場を形成し、個人的消費に関しては労働者と資本家の消費資料に対する需要としての市場を形成する。この両市場のうち、資本主義の発達は、機械制大工業以来とくに生産手段に関する市場を消費資料に関する市場よりも増大させる。この不均等な発展は資本主義を不可能にする(ナロードニキなどの主張)のではなく、資本主義における生産力を発展させ資本主義が歴史的進歩性をもつとともに過渡的形態にすぎないことを示す。市場の理論とは、商品生産・資本主義的生産における商品の実現を取り扱い、資本主義社会全体が素材的に価値的にどのように他の商品で補填(ほてん)される市場をみいだすかを示す理論であり、それは再生産論(実現理論)と同じことになる。
 この市場における商品の実現をめぐる論争が19世紀以来おこり、これを市場論争という。商品の実現だから恐慌論争でもある。
 19世紀初頭のナポレオン戦争後の1819年前後の過渡的恐慌を背景として、シスモンディ、マルサス対セー、リカード、マカロックのイギリス、フランスを舞台とするいわゆる古典的恐慌論争で市場論争は始まる。
 シスモンディは1819年の『経済学新原理』で資本主義的生産の矛盾から当時の恐慌を看取し、資本と所得の区別を強調して資本蓄積における所得拡大の必要の観点にたち、恐慌の原因をもっぱら労働者階級の所得不足(消費資料市場の不足)、過少消費に求めた。マルサスも翌年『経済学原理』で恐慌の原因を不生産階級である地主階級の過少消費に求め、資本蓄積の拡大は不生産的消費による有効需要増大で可能になると説いた。いずれも恐慌論としては過少消費説といわれるものである。これに対してセーは、すでに1803年の『経済学概論』で「販路理論」を展開し、生産物は生産物でのみ買われるから生産物の販路(実現)は他の生産物をつくることでみいだすことができ、販売と購買は均衡しうるとしていた。過剰生産の否定である。だがシスモンディの恐慌認識の批判にあうや、セーはこの論争で販路理論に基づく部分的恐慌を主張する。すなわち、生産部門間の均衡を失うときにのみ部分的恐慌になるとして、一般的恐慌を否定した。もともとシスモンディを最初に批判したのは販路理論によるマカロックで、シスモンディの新原理が出た年になされた。リカードもこの販路理論にたっていた。以上のシスモンディ、マルサスの過少消費説対セーの販路理論は、恐慌を中心に置いた市場の問題についての論争であった。
 次は、1837年と47年の恐慌を契機とするドイツでのロートベルトゥス対フォン・キルヒマンの論争である。これは、労働者階級の賃金減少(労働者階級の消費資料需要の減少=市場縮小)を恐慌の直接原因とするロートベルトゥスに対し、分配の不均衡による販路(=市場)の欠乏からの部分的恐慌をいうフォン・キルヒマンの対応であり、先の古典的恐慌論争の過少消費説対販路理論の再版にすぎなかったし、論争内容もむしろ後退したものであった。
 第三は、19世紀末のロシアを舞台とし、ナロードニキ、合法マルクス主義者、レーニンの三者間の、ロシア資本主義の発展の可能性をめぐる論争である。ここでは国内市場の形成をめぐる問題や資本主義の支配のもとでの市場問題が中心であった。
 さらに20世紀初頭には、カウツキー、R・ルクセンブルク、O・バウアーその他の間での論争、第一次世界大戦後にはブハーリン、グロースマン、シュテルンベルクその他の間での論争があった。これらは恐慌論争でもあり、また資本主義の崩壊をめぐる論争でもあった。
 なお、1885年にはマルクスの再生産表式が現れており、第三の論争以降は、いずれの問題に関しても再生産表式をめぐって展開されたものであって、再生産論争としてみることもできる。
[海道勝稔]

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